1867年、大政奉還、明治天皇が即位しました。(明治時代1868-1912)
江戸幕府に守られてきた囲碁界は、明治維新とともに基盤を失い、それぞれ家元は拝領屋敷を返上し、1869年には家禄も奉還することになりました。
西洋文化を多く取り入れる文明開化の時で、碁は困窮にありながらも、本因坊秀和は「三の日会」という研究会を設け、次の時代への希望をつなぎます。
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明治維新〜昭和初期 ( 近代の碁 )明治維新 1867年、大政奉還、明治天皇が即位しました。(明治時代1868-1912)
江戸幕府に守られてきた囲碁界は、明治維新とともに基盤を失い、それぞれ家元は拝領屋敷を返上し、1869年には家禄も奉還することになりました。 西洋文化を多く取り入れる文明開化の時で、碁は困窮にありながらも、本因坊秀和は「三の日会」という研究会を設け、次の時代への希望をつなぎます。 囲碁の普及 1878年、新聞(=郵便報知)に初めて碁譜が掲載されました。
1879年(明治12年)本因坊家とは別に、村瀬秀甫が「方円社(ほうえんしゃ)」を結成し、毎月の手合を収録して雑誌(=囲碁新報)を発行したり、碁の普及のため古い段位制にかわる級位制を取り入れるなど、次々と新しい試みを打ち出しました。 また秀甫は西洋人とも接し碁を教え、ドイツ人コルセルト氏が弟子となっています。 本因坊秀栄は、1892年(明治25年)方円社に対抗して「囲碁奨励会(いごしょうれいかい)」を発足しました。(=後の「四象会」) 明治中頃になると、政財界の中枢もようやく碁に目を向けはじめ、積極的に援助するようになります。 方円社側では井上馨(いのうえかおる)、後藤象二郎(ごとうしょうじろう)、岩崎弥太郎(いわさきやたろう)、渋沢栄一(しぶさわえいいち)らが、また秀栄側には大久保利通(おおくぼとしみち)、犬養毅(いぬがいつよし)、頭山満(とうやまみつる)らが有形無形の援助をしました。 新聞もそれぞれ囲碁欄が設けられました。これ以後の碁界は新聞囲碁を中心に展開します。 大倉喜七郎と東西の棋士が集まる(1924(大正13)年4月) 永田町の日本棋院 日本棋院創立
秀栄の死後(1907)、本因坊家の分裂や新組織が出来ては合同し、また分裂するという繰り返しで、大正(1912-1926)の時代になってからも本因坊家(=中央棋院)、方円社の旧勢力に加えて新しい会(=六華会、裨聖会など)が旗あげするなど、互いにしのぎをけずっていました。
そして、1923年(大正12年)死者9万人といわれる関東大震災では囲碁界も打撃を受け、碁界大合同の機運がめばえます。 囲碁界合同のため大倉喜七郎氏は東西の棋士を帝国ホテルに呼び協議会を開き、大正13年(1924)7月17日「日本棋院(にほんきいん)」が創立されました。 総裁・牧野伸顕(まきのしんけん)、副総裁・大倉喜七郎(おおくらきしちろう)が就任し、大倉の経済的援助によって東京麹町永田町に会館が建設(1926年)、ほとんどの棋士が参加し、その規模と事業はかつてない大がかりなものとなりました。 院社対抗戦 ところが日本棋院創立直後、1924年(大正13年)10月、五人の棋士が脱退し、「棋正社(きせいしゃ)」を結成します。
1926年、読売新聞の正力松太郎社長のおぜんだてで院社(いんしゃ)(=日本棋院・棋正社)対抗戦が企画され、結果は日本棋院の圧勝に終わりました。 この対抗戦の第一戦は、秀哉名人(しゅうさいめいじん)と雁金準一(かりがねじゅんいち)七段戦で大正の争碁の名にふさわしく大変な注目を集め、新聞の発売部数が一挙三倍になったともいわれています。 呉清源と木谷実
昭和2年(1927)から昇段を決める試合として、大手合(おおてあい)が開始されました。 昭和3年(1928)には中国から天才、呉清源(ごせいげん)が来日し、手合に参加します。
呉清源は1914年(大正3年)福建省生まれで、5歳年上の木谷実(きたにみのる)を兄のように慕い、昭和7年ごろからはお互いにライバル視するようになります。 昭和8年(1933)の大手合で木谷実、呉清源は毎局「新布石」を試みました。 木谷は勢力と位を重視するのに対し、呉は一手で隅を打ち切るスピードに比重をおきました。 翌昭和9年(1934)には「新布石法(しんふせきほう)」が刊行され、プロだけでなくアマの間にも大流行となりました。この新布石の利点と旧布石の長所を総合したのが、戦後の布石となっていきます。 本因坊秀哉名人引退
昭和12年(1937)、本因坊秀哉(ほんいんぼうしゅうさい)名人は引退を表明し、翌昭和13年(1938)に木谷実との引退碁を打ち終え、昭和15年(1940)病死しました。
引退碁は途中、秀哉の衰弱が激しくなり、入院のため対局は一時中止となることもあり6月〜12月まで半年かけて打たれ、結果は木谷の先で5目勝ちとなります。 この時、はじめて「封じ手(ふうじて)」制が採用され、川端康成(かわばたやすなり)が観戦記を担当しました。 のちに川端はこの引退碁をもとに小説「名人」を発表します。 新聞棋戦の展開 本因坊の名跡は日本棋院にゆずり渡され、昭和14年(1939)、毎日新聞社の協力で「本因坊戦」がスタートしました。
また読売新聞社では日本棋院と契約を結び、呉清源を軸に「十番碁(じゅうばんご)」を開始します。 朝日新聞社では昇段争いの大手合棋譜を掲載してファンの人気を集めました。 太平洋戦争 昭和16年(1941)、真珠湾攻撃で太平洋戦争がはじまると、棋士達は全国各地へ慰問のため巡業に回ります。
戦時中も本因坊戦や十番碁など続行されますが、昭和19年(1944年)には囲碁雑誌が休刊になり、空襲を受ける頃には碁を打つどころの状況ではなくなってしまいました。 昭和20年5月25日、日本棋院会館が戦災で焼失し、棋具や記録など失ってしまいます。 広島原爆ドーム 本因坊戦被爆 戦時状況下でも第3期本因坊戦は続けられました。
橋本昭宇(はしもとしょうう)(=宇太郎)本因坊と挑戦者岩本薫(いわもとかおる)の対局は、昭和20年(1945)7月、第1局を広島市内で、第2局は8月広島市郊外(五日市)で行われます。ところが8月6日朝、第2局の対局中、原爆の爆風に遭遇しました。 以降の歴史は、こちらの年表でご確認いただきますようお願いいたします。
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