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囲碁の黄金期 ( 江戸時代後期 )

 1800年代に入ると、囲碁界は黄金期を迎えます。
 江戸時代(1603-1867)の後期には商業経済の発達によって新しい町人階級から豪商(=ブルジョア)が生まれ、農業でも豪農がでてきます。豪商・豪農はしばしば中央の碁打ちを招待したり、地方在住の碁打ちを優遇しました。そのため碁打ちはよく、全国を旅回りしました。
 文化文政時代には十一世本因坊元丈(げんじょう)、八世安井仙知(せんち)、十二世本因坊丈和(じょうわ)、十一世井上因碩(いんせき)、十一世林元美(げんび)等が、また天保・弘化・嘉永時代には、本因坊秀和(しゅうわ)、本因坊秀策(しゅうさく)があり、その他天保四傑と呼ばれる伊藤松和(しょうわ)、安井算知(さんち)、太田雄蔵(ゆうぞう)、坂口仙得(せんとく)らがとりまき、まさに黄金時代となります。

十一世本因坊元丈と八世安井仙知

 十一世本因坊元丈(げんじょう)(1775年生)と八世安井仙知(やすいせんち)(幼少名は知得)(1776年生)は良きライバル同士で、年も近く少年時代からの大親友でもありました。
 この二人はともに全力をあげて戦い、碁所になってもおかしくはない実力をもっていながら、譲り合って二人とも碁所にならなかった話が残っています。
 元丈も仙知も、碁一筋で盤上以外での争いごとを嫌った清廉な人柄でした。

因徹吐血の局

 その後、丈和(じょうわ)・因碩(いんせき)の代になると一変して、碁所をねらって盤上以外での策略を双方が行い、スキャンダルをひきおこすことになります。
 1831年、十二世本因坊丈和(ほんいんぼうじょうわ)が名人碁所となりますが、1835年老中松平周防守(まつだいらすおうのかみ)碁会で丈和と赤星因徹(あかぼしいんてつ)の対局を因碩(いんせき)が企てます。

 因徹は因碩の弟子です。
 もし因徹が勝って丈和が負けることになれば、名人の資格はないものと引退させることを考えていたようです。
 壮絶な戦いの末、因碩の思惑ははずれて丈和が中押しで勝ってしまいます。
 胸の病を患っていた因徹は対局に敗れ、直後吐血して亡くなるという悲劇的な結末でした。
 これが有名な因徹吐血の局です。

 1839年、丈和もわずか在位8年で幕府から引退を命じられてしまいます。
 丈和が引退したあと1840年、因碩は自ら秀和(しゅうわ)との争碁にのぞみますが、三連敗し、因碩は碁所を断念します。


本因坊秀策 ( 1829-1862 )

本因坊秀策

 1837年、10歳の秀策(しゅうさく)は丈和の門に入ります。
 秀策の抜き出た碁の才能に師の丈和は「150年以来の棋豪である」といって、とても喜んだそうです。
 本因坊秀策(ほんいんぼうしゅうさく)は、道策とともに「碁聖」とたたえられています。

 1846年、因碩と秀策の対局で形勢の良かった碁を秀策の打った妙手で形勢が一変し、動揺した因碩の耳が赤くなりました。
 この碁は結局秀策の3目勝ちとなります。
 これが有名な「耳赤の妙手(みみあかのみょうしゅ)」といわれています。
 
 右図 : 1846年 秀策-因碩 127手目が「耳赤の妙手」と言われる一手

秀策流

 1848年、秀策は秀和の跡目となり、1861年御城碁が中止されるまでの13年間、19局全勝の大記録をつくりました。
 秀策があみだした布石法は後に「秀策流(しゅうさくりゅう)」といわれ、明治後半から大正時代にかけてコミなし碁の先手必勝法として、大いに研究され現在にまで伝わっています。
 1862年、秀策は流行したコレラのため、残念なことに34歳の若さで病死してしまいます。

歴代名人と家元四家