宮廷、貴族に広まった囲碁は、武士、僧侶などの知識階級へ、またしだいに農業、商業の人々の間にも広まっていきます。
1199年、玄尊(げんそん)が囲碁の戦術や礼儀作法、取り決めなどを書いた日本最古の棋書ともいわれる「囲碁式(いごしき)」を定めました。(=群書類従)
1253年、僧侶の日蓮と弟子の吉祥丸(=日朗)が打った碁の記録(=棋譜)があります。現存する最古の棋譜といわれていますが、本物かどうか分かっていません。
ただ、自筆の教本にも碁の記事がみえるところから、日蓮が囲碁を打ったことは間違いないようです。
また、同じ年に僧侶同士(=法探坊と刑部坊)の打った碁でルール問題(=両コウ問題)がおきました。
当時の文学として歴史書「吾妻鏡(あずまかがみ)」「太平記(たいへいき)」、 また吉田兼好(よしだけんこう)の随筆「徒然草(つれづれぐさ)」などにも囲碁に関わる記述があります。
吉田兼好 ( よしだけんこう )
拙き人の、碁打つ事ばかりにさとく、巧みなるは、賢き人の、この芸におろかなるを見て、己れが智に及ばずと定めて万の道の匠、我が道を人の知らざるを見て、己れすぐれたりと思はん事、大きなる誤りなるべし。
(知力の乏しい人が自分が碁を巧みに打てるからといって、碁の技芸には劣っている賢い人を見て、こいつは自分よりも知力が劣っていると決め付ける。それぞれの道に通じた専門家(職人)が、他人が自分の専門分野のことを知らないのを見て、自分のほうが優れていると思い込むのは大きな誤りである。)
1530年ころ、中国明の林応竜によって「適情録」20巻が編纂されました。
その中に虚中(きょちゅう)という日本の僧侶がつくった碁の図が384あまり入っています。
虚中という人物は誰なのかわかっていませんが、日本の碁は、中国と同レベルまでに達していたものと思われます