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日本への伝来 ( 飛鳥時代・奈良時代〜平安時代 )

日本への伝来

 囲碁が日本に渡ってきたのは、いつごろか?実はこれもはっきりとはわかっていません。
 奈良時代(710-794)に吉備真備(きびのまきび)が遣唐使(けんとうし)として唐から持ち帰ったという話がありますが、既に636年隋書・倭国伝には日本人が囲碁を好むことや、701年大宝律令・僧尼令などにも囲碁のことが記されていますので、日本への伝来はそれ以前からということになります。

「『隋書』倭国伝」

聖徳太子 ( しょうとくたいし )
 飛鳥時代(592-710)の607年、推古(すいこ)天皇の時に遣隋使(けんずいし)の派遣で、聖徳太子は「日の出るところの天子から日が沈むところの天子へ」と書いた書簡を持たせました。
 その書簡を見た隋の皇帝は怒りましたが、翌年、文林郎(官職名)・裴世清(ぶんりんろう はいせいせい)を隋の使いとして日本に送っています。
 裴世清(はいせいせい)が、608年日本に来ていろいろなことを調べ体験したことを記録したのが「隋書・倭国伝」です。
 「倭人(日本人)は仏法を敬い、(-中略-)、囲碁、すごろく、バクチの戯を好む」と記されています。

「大宝律令・僧尼令」
 701年、大宝律令(たいほうりつりょう)が定められました。
 これは隋や唐のような強大な国づくりをめざし、政治、学校、土地、身分などを取り決めた法律ですが、その中の僧尼令(そうにれい)にスゴロクやバクチは禁止するが、碁琴は禁止しないという法律が決められました。碁琴の碁は、もちろん囲碁のことです。


「木画紫檀棊局」
( もくがしたんのききょく )( 正倉院宝物 )

日本最古の碁盤

 奈良の東大寺大仏殿の北西にある正倉院(しょうそういん)には、聖武天皇(701-756)の遺品や当時の記録・品物が多くおさめられていますが、中には碁盤や碁石も保存されています。
 碁盤は3面、碁石は4種類が保存されていています。
 碁盤は3面のうち、「木画紫檀棊局」(もくがしたんのききょく)が最も有名です。

文献・文学との関わり


源氏物語絵巻
(げんじものがたりえまき)
 日本で最初に「碁」の文字が用いられたとされる「古事記」や「風土記」「懐風藻」には碁に関する記事が記されています。
 平安時代(794-1192)の文学として有名な紀貫之(きのつらゆき)らがまとめた「古今和歌集(こきんわかしゅう)」、紫式部(むらさきしきぶ)の「源氏物語(げんじものがたり)」、清少納言(せいしょうなごん)の随筆「枕草子(まくらのそうし)」などにも囲碁が登場します。
 これらの文献・文学作品の様子から、当時宮廷を中心にした貴族社会で囲碁を非常に好んだことがわかります。
 平安時代、醍醐天皇は囲碁が好きで、当時の一番の名手で碁聖と言われた寛蓮上人(かんれんしょうにん)と、金の枕を賭けた話が伝えられています。
 その後囲碁は貴族、僧侶や、宮廷の女性たちだけでなく、さらには、武士たちにも広まっていきました。
 清原真衡(きよはらのさねひら)が囲碁にあまりにも夢中になりすぎて、あいさつにきた一族の吉彦秀武(きみこのひでたけ)を無視したため怒って帰ったことが戦争の原因となったこともありました。(=後三年の役)