イメージ
「囲碁」というと、多くの方が「難しそう!」とまず思い浮かべるでしょう。また、「華やかさに欠け、暗い」「お年寄りがやっているゲーム」と思われるかもしれません。「頭を使うので受験勉強にさしつかえる」と思っている保護者もおられます。
私が保育園や幼稚園、学校を訪問しますと「あなたが囲碁の先生ですか? 若いのでびっくりしました」とよく言われます。私も三十歳を過ぎ若くはないのですが、囲碁のプロと言うと、まだまだ白髪で杖をついているような老人をイメージするそうです。
いつから、日本ではこのような囲碁のイメージになったのでしょうか。
ちなみに、囲碁の盛んな韓国をみるとイメージがまったく違います。国民四人に一人の囲碁人口があり、子供たちの習いごととして「ピアノ・そろばん・水泳・書道・囲碁」と上位五位の中に入っています。特にソウル市は人口四分の一が集中する大都市ですが、市郊外の高層団地には囲碁教室が隣接しており、一つの団地に六ヶ所囲碁教室があったり、送迎バスのある囲碁教室など、驚くほどの活況を呈しています。韓国ではパチンコもないし娯楽が少ないから囲碁に集中するのだという人がいますが、韓国の囲碁は既に単なる娯楽以上のものになっていて、「碁を打つと頭がよくなる」「碁を覚えると将来、役に立つ」「出世するには、囲碁は不可欠」などというイメージがあり親が進学を前提に積極的に我が子を囲碁教室に通わせているのです。
それぞれ国の事情が異なるにしても、囲碁が盛んなのは、うらやましい話です。日本での間違った囲碁に対するイメージを180度、変えて行かなければなりません。
ルーツ
囲碁はルーツをたどるとゲームとしてではなく『人間教育』の一つとして代々伝わってきたようです。囲碁の始まりは四千年とか五千年前、中国で生まれたと言われていますが、文字が出来る以前にすでにあったようで、はっきりしたことは分かりません。中国の歴史や日本の歴史に囲碁はよく出てきますが、中国の皇帝や貴族の人たちが子供に『人間教育』の一環として「琴・棋・書・画」を習わしていたことが出ています。琴は音楽、棋は囲碁。特に囲碁は、国を治め、人を治める教材であったことが伝えられています。
悩み
私が子供達に囲碁を教えはじめた頃は、どのように教えればよいのか本当に悩みました。子供の前で囲碁の話を始めると、「よそ見」をしだし、「あくび」をするかと思えば、その場を離れて遊びに行ってしまう子供まで出てしまいました。つまらないと思えば、子供は正直です。すぐ態度に表れるのです。どのようにしたら話を聞いてくれるかといろいろと試行錯誤しながらやってみましたが、うまくいきませんでした。立って話をしないで目線を同じにしようとか、いろいろ意識してやってみましたが、なかなかうまくいきません。悩みに悩みました。
ある日、気づいたのです。教え込むことばかりに必死になっていた自分に……。
私の目的は、囲碁の強い子供をつくることではないのです。囲碁を通じて、いろいろなことを自分の力で学びとることが出来る子供に、人と人との心の輪をつなぎ広げ、思いやりの気持ちを持った子供に、心身の調和のとれた人間になって欲しいことなのです。教えることの難しさに悩みすぎて、「囲碁を教える」のではなく、「囲碁で教える」のだという本来の目的を見失っていたのです。
囲碁で教える
私が子供達に囲碁を教えようと思ったのは、「いじめの問題」がきっかけでした。もう、だいぶ前になりますが、ある生徒がいじめを苦に自殺し、学校側は事故死と発表して、事実を隠す事件がありました。『なんて酷い事件だろう。このままだと大変な事になる。日本は本当にダメになる』と私はつよい衝撃を受け、そして囲碁がその問題の解決に少しでも役に立つことができないだろうか、と考えはじめたのです。
平成八年二月に開かれた日教組教育研修会の最大テーマは「いじめ問題」でした。いじめを苦にした自殺が後を絶たず、大きな社会問題となっているのに対策、解決策が不明確で、教師の方々の危機感は相当なものと思います。
子供達は受験戦争、過度の塾通いなど忙しい毎日でストレスがたまっています。当然過度のストレスは登校拒否や家庭内暴力、いじめ等の問題を引き起こし、常識では考えられない事件までも発生しています。
先生方はカリキュラムの中での指導、行事、電話連絡、会議などをこなしながら、その中で生徒とのコミュニケーションをとっていく多忙な日々。学校の「窮屈さ」は子供達だけでなく、先生方も感じておられるのではないでしょうか。
そこで私が思ったのは、日頃少しの時間でも構わないから先生と生徒が一緒になってもっと遊んだらどうかということです。「遊ぶ」ということは共に楽しさを分かち合うことです。指導者は聖人でなければならない、立場上、生徒にナメられてはいけない、威厳をもたなければ教えられないと思っておられる先生方がいらっしゃるかもしれません。「一緒にあそぶなんてとんでもない」と反対意見がでるかもしれません。でも、本当にそうでしょうか。
教師は人を育てる大事な聖職として、確かに先生と生徒の間に一線は必要です。しかし、これは双方の理解と違う立場であることをお互い認め合うことで成り立つ一線です。これを間違えると、お互い認め合うことが出来ない関係での一線では『鉄のカーテン』と化してしまいます。
一緒に遊ぶと、今まで気付かなかった生徒の一面が見えてくると思います。同様に生徒の方も先生を注意深く観察するようになります。この「共有する楽しみ」を持つことによって、さらに信頼関係が深まり、お互いの立場が分かってくるのではないでしょうか。また、この日頃の関係が「いじめ防止」にも役立つのではと私は思っています。
「遊ぶ」ということは「学ぶ」ということに通じ、より楽しく学ぶためのカンフル剤的役目を果たすものです。そうこう思い、考えていくと囲碁は最適であることが分かってきます。単なる「遊び」としてだけでなく、教育の手段としても大事な役目を担うことが出来、人格を涵養するものだからです。
囲碁は頭脳ゲームとして集中力が身につき発想が豊かになると言われています。盤上の交点ならどこに打ってもよいという自由なルールで「かたち」を創り上げていくのが囲碁です。破壊、征服を目的としたファミコンゲームには無い創造性があります。バランス感覚を養うのはご存じの通りで、子供達には物事の価値判断をする訓練にもなり、何が大事かということが自然と身についてくるのです。
また人間の脳には左脳と右脳があって、通常、左脳は計算や暗記などコンピューター的な論理的思考機能を受け持ち、右脳は感覚的な領域で形や空間などの認識、大局的な視野での判断力を受け持つと言われています。医学的にみても囲碁は右脳を刺激し、判断力を高め、ストレス解消に効果があることは既に認められており、ボケ防止にも役立つことが調査で実証され、脳卒中のリハビリや予防面でも注目されています。
しかし、効能はそれだけではありません。囲碁は子供からお年寄りまで誰でも生涯楽しめるので、友人、先輩、後輩、教師、家族等との年代を越えたコミュニケーションに大変役に立つのです。私自身も囲碁を通じて非常に多くの人と知合うことができました。人と接することによって、自分一人では生きていけないこと、人を思いやる気持ち、感謝の心が如何に大事かが分かってきます。年代性別を問わず、国境も関係なく楽しめる囲碁は本当に素晴らしいものなのです。
いじめについては前述でふれましたが、学校内だけの問題ではありません。子供には取り巻く環境すべてが影響するわけで学校内だけでなく家庭内での問題でもあるのです。
或る中学校では、いじめられた生徒に教師全員が連携して目を配り、学校ぐるみの対応にもかかわらず、いじめに加わった生徒は、いじめをなかなか認めない。さらには、いじめた生徒の親に加害の重さ、事の重大さを理解してもらうことが難しかったというリポートがありました。「我が子に限ってそのような事をする子ではない」と思い願うのは心情ですが、親の冷静な判断と対処を怠ると歪んだままの人格で、将来の我が子の人生をダメにしてしまうかもしれません。普段からの家庭内におけるコミュニケーションを密にすることがとても大事なことなのですが、残念ながら家族との会話の足りない家庭も少なくありません。核家族、共働きの家庭が増える中で、親も多忙な毎日。特に父親は帰宅が遅く子供の寝顔しか見れず、休みの日は仕事疲れでゴロゴロ。子供が今、何をしているか、何を悩んでいるか会話がないので、よく分からない。いろいろ追われ気づかぬうちに、或いは気づいていても忙しさの中、子育ては母親に委せっきりで子供との接触が疎かになっているのでは……。
子供の成長過程で、幼児期から小学生までの時期が特に大事であると言われています。この時期に人間形成の土台が出来上がるからで、環境、家庭内の過ごし方で決ってしまいます。私が敢えて囲碁で保育園・幼稚園に廻っているのは、このためなのです。
或る幼稚園で、私が気にかけていた子供がいました。その子は障害をもった子で、囲碁を始めた頃は、なかなか溶け込んではくれませんでした。ある日、園児全員で石取りの囲碁を行った時、たまたまその子が二回続けてうまい手を打ったので、みんなの前でほめました。「この手はすばらしい! じょうずに打てたね。みんな拍手!」「家に帰って、お父さん、お母さんにこのことを話してごらん」そう言うと顔に表情は出せないのですが、目がとても、うれしそうでした。
一ヵ月後、またその幼稚園にいきました。教室に入ると子供達がいつものように私に飛びついてきます。目の前を見ると、なんとその子が真っ先に飛びついているではありませんか。『この子が心を開いてくれた。僕に心を開いてくれた。ありがとう。ありがとう。』こんな言葉が一瞬のうちに脳裏に走り、震えている自分に気がついた時、涙が溢れてきました。そして、その子は何か必死になって私に話しかけてきました。発音はできないのですが、何を言おうとしているのか、とてもよく分かりました。
そのまた一ヵ月後、とても楽しみにいきました。今回は子供達も先生も、私が来ることは知りません。子供達の様子をそっとのぞくと、その子の姿が見あたりません。今日は、会えないのかなあーっ。いやいや、よく見るとみんなと一緒に遊んでいるではありませんか。なかなか溶け込めずに、一人でいることが多かったのに! 先生に話を聞いてみると、最近発音が出てくるようになってきたそうです。私との出会いや、囲碁との出会いがその子にとって、とてもよかったと先生は言われました。
その子の成長過程で何らかの変化が起きたのです。感受性豊かな子供たちは何かをきっかけにして、突然これまでと違って見えるような変化が起こりうるのです。その子が変わったのは、囲碁の出会いが直接の原因ではないかも知れませんが、幼稚園・保育園を廻っていると、これに似たような事があちこちで起きています。囲碁をきっかけにして何らかの心と心のふれあいが人を変えているのではないでしょうか。
囲碁は教育・人間形成において素晴らしい力があることを子供達と接していて痛感しています。
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