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初代本因坊算砂と御城碁の始まり ( 近世の碁 )

初代本因坊算砂


本因坊算砂 ( ほんいんぼう さんさ )
( 京都・寂光寺 )
 安土桃山時代(1573-1603)から江戸時代(1603-1867)は、大名、大商人が中心として活躍した時代です。
 1578年、織田信長は上洛したとき、囲碁の名手として聞こえていた若き日蓮宗僧侶の日海(にっかい)を引見し、その碁を観て信長は日海を「名人(めいじん)」とたたえたという逸話がありますが、後の創作という説があります。

 日海は後の本因坊算砂(ほんいんぼうさんさ)(1559-1623)です。
 日海(=幼名を加納與三郎という)は1559年に生まれ、8歳で京都寂光寺の門に入りました。また合わせて囲碁を習います。囲碁の師は堺の仙也。

 日海は寺の塔頭(たっちゅう)「本因坊(ほんいんぼう)」でくらしていたので、後に本因坊算砂とその名でよばれるようになります。

信長、秀吉、家康の碁好きに仕える

 日海は信長、秀吉、家康に囲碁をもって仕えました。
 信長、秀吉、家康ともに日海に五子の手合だったといわれています。

 1582年、日海は本能寺の変の前夜、信長の御前で日蓮宗僧侶の利玄と対局したと伝えられています。
 ところが、めずらしい囲碁の形(=三コウ)ができ、無勝負となったということです。
 三コウを不吉の前兆とするのはこの話からです。
(※江戸時代になって伝えられた話で史実とは異なるとする説が今日では有力となっています)

 豊臣秀吉は本能寺で信長を攻めた明智光秀を討ち、1585年、関白となり治安の回復を待って日海をよびよせます。1585年、1588年に、秀吉が今でいう全国大会を催し御前試合を行い、日海がどちらも優勝しました。

 1587年、日海は駿河に入り徳川家康と碁を連日連夜打った記録があります。
 1588年、秀吉は日海に碁の役職(=官賜碁所)を与えました。

御城碁

 1603年、徳川家康が征夷大将軍となったとき、日海がお祝いに参上して、家康と五子で対局をしています。
 後に家康の指示で日海は寂光寺を弟の日栄に譲り、隠居して「本因坊算砂」と名のり「名人碁所(めいじんごどころ)」に任ぜられました。
 1612年、幕府は本因坊算砂らに俸禄を与え、プロの棋士が誕生がしました。

 そして、1626年には御城碁(おしろご)がはじまります。
 それ以来、囲碁は日本の国技として発展していくことになります。
 御城碁は毎年1回江戸城で打たれ、徳川吉宗の時代には(=1716年から)家康の命日にちなんで、毎年11月17日と対局日も決められました。
 1861年までに全部で530局ほど対局されました。

 碁所の仕事は天覧碁の組織、将軍の指南、免状の発行、全国棋士の統一などで、名人でなければ碁所にはなれませんでした。やがて本因坊につづいて、井上、安井、林の家元四家(いえもとよんけ)で碁所を争うようになります。

 碁打衆を保護し、「御城碁」の基盤を築き近世囲碁の発展、振興に絶大な貢献をした徳川家康の存在は非常に大きかったと言えます。

家元四家

 四家の家元制が確立し碁界が組織的に安定してくると、碁所をめぐって勢力争いが起こりました。
 三代将軍家光のとき、碁所をめぐって話し合いがつかなくなり、幕府の命によって囲碁で決着をつけること(=争碁(そうご))になりました。
 幕府は二世本因坊算悦(さんえつ)と二世安井算知(さんち)の二人に二十番の争碁(そうご)を命じたのです。

 1645年の御城碁を第1局として、その後9年間にわたって六番まで争いましたが、お互いに黒番を勝ち、引分けます。死闘の戦いもここまでとし、碁所は一時預かりとなります。
 その後、算悦は48歳で病死したため、算知は1668年、碁所に任ぜられました。
 これを不服としたのが算悦の跡目である本因坊道悦(どうえつ)でした。
 道悦は将軍の意に反して争碁を申込み、負けたら遠島も覚悟の上で打ちました。
 1676年、道悦が12勝4敗4ジゴで勝ち、算知は引退しますが、道悦も公儀で決めた碁所に異議を申し立てた責任をとり、自分の跡目を道策(どうさく)にゆずって引退します。

四世本因坊道策


本因坊道策 ( ほんいんぼうどうさく )
 1677年、四世本因坊道策(どうさく)が碁所に任ぜられても、異議を申し立てる者はだれもいませんでした。
 最強という評判どおり、道策の実力は十三段といわれ、誰も勝てなかったからです。
 本因坊道策は名人の中でも特にすぐれていたので、後に「碁聖(ごせい)」といわれました。(=道策は前聖、秀策は後聖とたたえられ、二人とも碁聖といわれています。)

 大天才の道策は、安井流とよばれた当時の古いタイプの手法に変革を加え、合理的な碁を創り上げました。

 合理的な手割、全局的な布石の観点によるその手法は後に、道策流と称されるほど画期的なもので、日本の碁は道策が創作したともいわれています。
 道策が亡くなった後も争碁は続き、江戸時代に6回行われています。
 碁所をめざし御城碁や、家元四家で真剣にお互いの技量を磨いたことが進歩発展につながったといえます。

安井算哲(渋川春海)

 囲碁四家の一つ、安井家の一世算哲の子として京都に生まれ、17歳で御城碁に初出仕。1684(天和3)年まで17局を勤めました。
 江戸初期を代表する棋士であり、天文暦学者としても著名

 碁盤を天文に見立て、初手はその大極である天元に置くのがふさわしいとの判断をしたことで知られ、1690(寛文10)年の御城碁で本因坊道策に対し第一着を天元に打つ。(しかし負けてしまいそれ以降は天元に打つのを止める)
 日本初の国産歴(貞享暦)を編纂したことが評価され天文方に任命されます。
 「今で言うとノーベル賞級の学者がトップクラスの棋士を勤めているようなもの」と評価されています。