囲碁の歴史08 | 昭和の囲碁 |
日本(にほん)の時代(じだい)の移(うつ)り変(か)わり | |||||||||
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● | 昭和16年、真珠湾攻撃(しんじゅわんこうげき)で太平洋戦争(たいへいようせんそう)がはじまると、棋士達(きしたち)は全国各地(ぜんこくかくち)へ慰問(いもん)の巡業(じゅんぎょう)に回(まわ)りますが、空襲(くうしゅう)を受(う)ける頃(ころ)には碁(ご)を打(う)つどころの状況(じょうきょう)にはなく、囲碁雑誌(いござっし)は休刊(きゅうかん)になりました。 | |
● | 昭和20年5月25日には日本棋院(にほんきいん)会館(かいかん)が戦災(せんさい)で焼失(しょうしつ)し、棋具(きぐ)や記録(きろく)など失(うしな)ってしまいました。 | |
● | そのような状況下(じょうきょうか)でも第3期(だいさんき)本因坊戦(ほんいんぼうせん)は続(つづ)けられました。 橋本昭宇(はしもとしょうう)(=宇太郎)と岩本薫(いわもとかおる)の試合(しあい)は、昭和20年7月、第1局(だいいっきょく)を広島市内(ひろしましない)で、第2局は8月広島市郊外(ひろしましこうがい)(五日市)で行(おこな)われます。 ところが8月6日朝(あさ)、第2局(だいにきょく)の対局中(たいきょくちゅう)、原爆(げんばく)の爆風(ばくふう)に遭遇(そうぐう)しました。 |
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広島原爆(ひろしまげんばく)ドーム | ||
● | 昭和20年8月15日、終戦(しゅうせん)をむかえます。 日本中(にほんじゅう)がすさんだ時期(じき)ですが、すぐに瀬越憲作(せごえけんさく)、岩本薫(いわもとかおる)らが中心(ちゅうしん)となって、日本棋院(にほんきいん)の再建(さいけん)をめざしました。 |
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左・瀬越憲作(せごえけんさく)と 右・鈴木為次郎(すずきためじろう) |
岩本 薫(いわもとかおる) | |
● | 翌(よく)昭和21年には、4月から大手合(おおてあい)を再開(さいかい)し、雑誌(ざっし)「棋道(きどう)」が復刊(ふっかん)されました。 昭和23年、日本棋院会館(にほんきいんかいかん)(港区芝高輪)が開館(かいかん)しました。 |
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高輪(たかなわ)の日本棋院(にほんきいん) | ||
● | 昭和24年、大手合制度(おおてあいせいど)開始以来(かいしいらい)初(はじ)めて、藤沢庫之助(ふじさわくらのすけ)(=朋斎)が九段(くだん)になり、日本棋院囲碁規約(にほんきいんいごきやく)も制定(せいてい)されました。 | |
● | 昭和24年に藤沢(ふじさわ)は九段(くだん)になり、翌年(よくねん)、呉(ご)も日本棋院(にほんきいん)から九段(くだん)が贈(おく)られました。 昔(むかし)から「名人(めいじん)」は同時代(どうじだい)に一人(ひとり)しか許(ゆる)されなかったのが、トップの座(ざ)に二人(ふたり)いることで、いずれかは戦(たたか)うことになります。 ファン待望(たいぼう)の二人(ふたり)の十番碁(じゅうばんご)は昭和27年、28年に実現(じつげん)しますが、呉(ご)は圧倒的(あっとうてき)な強(つよ)さで藤沢(ふじさわ)を打(う)ち込(こ)みました。 |
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呉清源(ごせいげん)と藤沢朋斎(ふじさわほうさい) | ||
● | 昭和25年、大阪(おおさか)では日本棋院(にほんきいん)から関西独立(かんさいどくりつ)の声(こえ)が高(たか)まり、さらに関西(かんさい)の中(なか)でも独立派(どくりつは)と協調派(きょうちょうは)に分かれました。 独立派(どくりつは)の橋本宇太郎(はしもとうたろう)は数名(すうめい)の仲間(なかま)といっしょに「関西棋院(かんさいきいん)」を独立(どくりつ)して、協調派(きょうちょうは)の「日本棋院関西総本部(にほんきいんかんさいそうほんぶ)」の二(ふた)つに分裂(ぶんれつ)、そして今日(こんにち)に及(およ)んでいます。 |
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● | 昭和26年、第6期(だいろっき)本因坊戦(ほんいんぼうせん)で橋本昭宇(はしもとしょうう)(=宇太郎)本因坊(ほんいんぼう)に坂田栄男(さかたえいお)七段(しちだん)が挑戦(ちょうせん)しました。 昭和の大争碁(だいそうご)ともいわれる試合(しあい)で、坂田(さかた)は3勝(しょう)1敗(はい)まで追(お)い込(こ)みましたが、その後(あと)3連敗(れんぱい)の大逆転(だいぎゃくてん)で敗(やぶ)れてしまいます。 |
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● | 翌年(よくねん)、高川格(たかがわかく)(=秀格)七段(しちだん)が挑戦(ちょうせん)し、4勝(しょう)1敗(はい)で橋本(はしもと)から本因坊位(ほんいんぼうい)を奪取(だっしゅ)し、以後(いご)九連勝(きゅうれんしょう)の大記録(だいきろく)をたてました。 また同年(どうねん)、女流本因坊戦(じょりゅうほんいんぼうせん)も開始(かいし)されました。 |
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第7期本因坊戦、左・高川秀格(たかがわしゅうかく)、右・橋本宇太郎(はしもとうたろう) | ||
● | 昭和30年以降(いこう)になると各新聞社(かくしんぶんしゃ)によるプロアマ棋戦(きせん)が充実(じゅうじつ)し、テレビ囲碁番組(いごばんぐみ)、国際(こくさい)アマ大会(たいかい)などが始(はじ)まります。 韓国(かんこく)では韓国棋院(かんこくきいん)が設立(せつりつ)されました。 |
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● | 昭和31年には中国(ちゅうごく)では囲碁(いご)が奨励(しょうれい)され、韓国(かんこく)では第1期(だいいっき)国手戦(こくしゅせん)がスタートしました。 | |
● | 昭和32年、第1回(だいいっかい)ヨーロッパゴコングレス(=欧州囲碁大会)がはじまるなど、海外(かいがい)での囲碁(いご)も着実(ちゃくじつ)に広(ひろ)まっていきます。 | |