The 2nd Hans Pietsch Memorial in Germany
(2004/9/25・26)

第1回ハンス ピーチ・メモリアル大会レポート
ドイツ囲碁連盟ホームページ 少年囲碁普及活動を行っている
社団法人go4schoolのホームページ
大会レポート
ハンス・ピーチ・メモリアル2004 大会レポート

ベルリン大会実行委員長カリ・バルドゥィンとの会話より

(きっかけ)
 こんにちは、私はカール・ハンス・バルドゥィンと申します。ベルリンで、フリーの囲碁指導員として活動をはじめて二、三年になります。ハンス・ピーチさんとは、二回、シュトラースブルクとザグレブで会ったことがあるだけですが、そのときから、大変好感の持てる人だという印象を受けていました。彼がショッキングな突然の死を迎えた後、彼のための追悼大会に参加したいという気持ちが、私のなかではっきりとした形をとりました。そういうわけで、2003年には、二つのチームを引率し、ブレーメンで行われた第一回大会に参加しました。その大会のすばらしい雰囲気に私はすぐに魅せられました。

(ベルリン・ノイケルン地区の小学校に開催場所を決定)
 その後、ハンス・ピーチ・メモリアル大会を次回どこで、どのようにして開催するかということが問題になり、また、何人かの有志で、そのような青少年活動のための支援団体(社団法人go4school)を設立しようという話が出されたとき、私はすぐに関心を持ちました。私はベルリンでの世話人になることを志願しましたが、そのときはまだどのようにすすめていけばいいのか見当がつきませんでした。そのようなことをはじめて行うときには、勇気と、多くの人の助力が必要です。そういうとき、お互いに信頼しあえることは、心強いことです。

 フランツ・シューベルト小学校での囲碁指導員として、私は、校長先生とたいへん良好な関係にありました。彼女は私の入門講座とその後の活動を見て、大変感銘を受けていらしたからです。同地区における地区マネージメント(都市における、貧困化などの社会的問題を抱えた地区の発展を促進するために設置された公的機関)とも、さらにコンタクトを得ることができたので、私は、困難なく、このノイケルン地区のヴェーザー通りで大会を開催しようという決断を下すことができました。ノイケルン地区は、ベルリンのなかでも、さまざまな社会的問題が集中している地域のひとつで、全てがすばらしいというところではないかもしれませんが、まさにその社会的な諸側面もまた、私の活動のなかで、重要な役割を果たしています。フランツ・シューベルト小学校は音楽教育に力を注いでいる学校で、生徒一人一人が、それぞれ一つの楽器を練習しています。この学校は交通の便のいいところにあり、大会の開催日は、ベルリンマラソンと重なりましたが、このことも参加者たちに多少の関心を呼び起こすことになりました。

(とにかくまず飛び込んでみる−準備)
 地元の世話人として、考えなくてはならないことは無数にあります。はっきりとしたコンセプトは私には最初のうちはありませんでした。というのも、この大会が私にとって最初の大きな、自分で準備した大会だったからです。しかし、時がたつにつれて、次々といいアイディアが浮かんできました。開催の二週間前には、全てをひとつの大きな計画表に書いて、体系的にまとめ上げることができました。四人のプロ棋士の皆さん、ピーチさんのご両親、引率者とチームの少年少女たち、それぞれ宿泊に関してさまざまな希望を持っているので、その割り振りは、私にとってなかなか大変なことでした。

 多くの支援者と引率者の方々が協力してくださったことは、大変うれしかったです。フロレンティーノ(通称フローラ)・ネートは、私たちのためのプロの料理長をつとめてくれました。リューディガー・ベッカー、ダニエラとアンネ・トリンクス、そしてクリスティアン・ヴェンツェルは調理場で大活躍でした。シュテフィ、クレメンス、ハーラルトほか多くの人が、準備段階で協力してくれました。私は、彼らと、そしてピーチ夫妻と、頻繁に、時には毎日のように連絡を取り合いました。

(開催前の緊張−最後の一週間)
 開催前の最後の数日は本当に大変でした。すぐに片付けなくてはならない用事がひっきりなしに飛び込んできました。そのようなことは私にとっていつも簡単というわけではありませんでしたが、気持ちをしっかりと持って事に当たれば、うまくいくものです。日に二回ほど、私はシュテフィと電話で、準備の打ち合わせをしました。開催の一週間前に、私は街頭でのあるフェスティバルで、書道家の日本人女性と知り合いになり、私はその場ですぐに、彼女が私たちの大会にも来てくれたらいいなと思いました。私は開催直前になって彼女を呼ぶことに決めましたが、go4schoolは、彼女に予算を出すことをOKしてくれました。競技に関する段取りも、クレメンスと担当のスタッフたちに安心して任せることができました。二つのチームが締め切り直前に来られなくなり、ハンブルクのオルデンフェルデ・ギムナジウム第二チームとベルリンのアンネ・フランク・ギムナジウムに、参加のチャンスが巡ってきました。私は、ベルリンの地元の子供たちに、ひょっとしたら代役として飛び入り参加することになるかもしれないとあらかじめ言っておきました。

(参加者の到着−金曜日)
 学校使用に関する諸手続も終わり、結局十六チームが参加することになりました。これから全てが始まります。校舎の管理人と校長先生は、それぞれ病気と一身上の都合で、立ち会うことが急にできなくなり、私は鍵をもらったものの、現場の相談相手もいないままに、私自身が鍵に、つまり、全学校の管理責任者になることになりました。電気や照明の配電盤や、部屋の鍵などのことで、どんな問題が起こらないとも限りません。囲碁の用具が最初に届き、それからたくさんの食べ物と飲み物が到着しました。それからシュテフィが重野由紀さんと一緒にやってきました。二人は入り口のすぐ前の場所を使うことになっていました。幸いだったことは、そんな風に全てが少しづつ順番にやってきて、いっぺんには来なかったことです。

 食事に関しては、調理場のことや、食事室のレイアウトのことも含めて、シュテフィと相談しました。献立と買い出しのプランは、フローラとすでに一週間前に取り決めていました。私たちは盤石を並べ、会場設営をしました。ピーチ夫妻が、小林千寿さん、千寿さんの娘さんのアンナさんと一緒に到着しました。私は皆に挨拶をしました。アンナさんがピアノの前に座り、私たちのために演奏してくれました。準備の時の大変素晴らしいひとときでした。だんだんと最初の数チームが会場にやってきました。私たちが会場の準備を忙しく続けている間、調理場では最初の夕食の準備がなされていました。最初の何人かの子供たちがサッカーゲームの台を見つけました。手づくりの視覚障害者用碁盤を目隠しの布と一緒に置いておきましたが、これにもすぐに興味を持つ子供たちが出てきました。そんなふうに、金曜日はたいへん和やかですばらしい雰囲気のうちに過ぎていきました。

 宿泊所と調理場は一階でしたが、競技が行われる広間と、運営委員会の部屋、プロ棋士の部屋は四階にありました。何度も上ったり下りたり、何回往復したかわからないほどでした。寝る部屋は三つ(あとで四つになりました)あり、子供たちは夜も長い間遊ぶことができました。私はホルスト・ティムと一緒に帰宅し、パウル・コンラディは入り口付近の一室で寝ました。彼が鍵を預かり、ありがたいことに夜警と管理人を一人で兼ねてくれました。

(大会の朝−土曜日)
 パウルが鍵を開け、アンネ・トリンクスはもう朝食の準備のために来ていました。私は木曜日に注文しておいた百個のパンを取りに行っていました。ダニエラとクリスティアンも少し後に到着しました。午前中のうちに、西条雅孝さん、タラヌ・カタリンさん、ハーラルト・クロル、マルティン・シュティアスニー、ベルンハルト・クラフトもやってきました。ノイケルン地区の地区マネージメントのヴェーバーさんと、ノイケルン区議会議員のヴァイスベッカーさんも到着しました。地区マネージメントは、この大会のためにささやかな寄付をしてくれました。もう一度お礼を言いたいと思います。午後一時には、フローラが最後の買い出しから帰ってきました。プロの料理人として彼は、午後五時に出すことになっている最初の温かい食事の、鶏肉とキノコと野菜を使った米料理のことで、手伝いに来た人たちと打ち合わせをし、それから調理にとりかかりました。

(開会)
 大会はほぼ予定の時刻に開くことができました。日本棋院理事長の加藤正夫さんの挨拶が読み上げられ、ドイツ囲碁連盟、go4school、そして実行委員のシュテフィと私が、挨拶と謝辞をすませた後、細かい競技のルールがクレメンスによって説明されました。ホルストがカストロプから引率してきた生徒たちが、説明のとおりにもう一度、白黒を決める「握り」のやり方を、参加者全員に、わかりやすく楽しい寸劇形式で上手に実演してくれました。日本語教師のハーラルトと一緒に、全員で「おねがいします」の挨拶とともに、クレメンスが定刻通りに競技の開始を宣言しました。そうして、ようやく、この大会の主役である、四十八人の少年少女たちにとっても、スタートが切られたのでした。彼らの緊張は、石を持つ指先からも感じ取ることができました。

(日本のお客さん−プロ棋士の皆さん、そして書道家の女性)
 プロ棋士の西条雅孝さん、タラヌ・カタリンさん、小林千寿さん、そしてもちろん重野由紀さんは講義室で準備をし、見学に来ていた子供たちもすぐに参加しました。初級者同士の第一試合はあっという間に決着がついたので、プロ棋士の皆さんはすぐに大忙しになりました。それはずっと続き、特に西条さんは、いつもの先生の流儀で、とてもまねのできない活躍ぶりを見せてくださいました。

 午後二時に、書道家の女性が競技の行われた広間のとなりの机につきました。たちまち彼女は、目を丸くしたたくさんの子供たちに取り囲まれました。生徒たちだけでなく、何と七十人もの興味ある人たちが、自分の名前をひらがな、カタカナ、漢字で書いてもらったのでした。

(残念な出来事−招かれざる客)
 夕方近くになって、一人の女生徒が、自分の携帯電話がなくなっていることに気づきました。私たちはすぐに、全員に、自分の持ち物をチェックするように言いました。何人かの子供の持ち物がなくなっていることがわかりました。後になって何人かの大人が、一見したところまったく普通の、興味を持ってやってきたように見えた若者が数人いたのを思い出しました。誰かがおそらく試合の途中に、会場から五メートルしか離れていない向かいの宿泊用の部屋のなかに、厚かましくも入って行って、ねらいをつけてまたたく間にいくつかのリュックを引っかき回していったのでしょう。MP3プレーヤーや、CDプレーヤー、デジタルカメラ、携帯電話などが盗まれていました。もちろん、子供たちも付き添いの大人たちも皆(私がたぶん一番)ショックを受けました。競技が行われる部屋や、運営委員会の部屋の近くで、それも建物の四階でこのようなことが起こるとは予想だにしていないことでした。もう一つあった階段がおそらくは逃げるのに好都合な機会を提供していたことに皆が気づいたときにはすでに後の祭りでした。事件が発覚したときには、全員が競技や食事の配膳にすっかり夢中になっていました。ベルンハルトは、私たちと善後策について話し合い、ハーラルトは何人かの子供たちをなぐさめ、警察を呼びました。係員たちが来て、そのうちの一人が皆の話と被害内容の聞き取りを行いました。後でわかったことでしたが、この地域のある少年グループは、州刑事局にマークされている一団であり、シュテフィと私は、調書の点検が終わった後、警察署に同行しなくてはなりませんでした。

 この出来事は私にとって、大変骨身にこたえました。大変苦労して、心を込めて、あることに一生懸命取り組んだあとで、子供たちの困った顔を見るのが、どんなにつらいかは、他人には想像しがたいものです。今回この大会報告をするまでに、いくぶん時間を必要としたのも、きっとこの一件がひとつの原因だったと思います。思い出したくないような事件を、理性的に述べることは、難しいことだからです。

 参加者たちは皆すばらしい一致団結ぶりを見せ、しばしの議論があった後に、救済基金が作られ、プロ棋士の皆さん、来訪者の方々、その場にいた世話人たちが、そして何人かの子供たちまで、寄付をしてくれました。この一件の処理にあたって、私を助けてくれたのは、何よりもまず、参加者全員の協力的な態度でした。しかし残念ながら、おいしい夕食も、警察に行っていた私とシュテフィには食べる暇がありませんでした。夜もさらに引き続いて、プロ棋士の皆さんによる講座と、多くの感じの良い人たちとの多くの会話で満たされました。この良い雰囲気は、幸いにも私たちから盗まれることはありませんでした。夜遅く、ホルストの気分も幾分和らぎ、ベンヤミンも私の家に泊まりに来ました。北ドイツの人間の私とベンヤミンは、その後も遅くまで「シュナッケン」(北ドイツの方言で、おしゃべりする、という意味の言葉)していました。

(日曜日−大会二日目)
 私たちは、この日の対局は早めに開始してもらわなくてはなりませんでした。遠くから来たチームは帰りの電車に遅れないようにしなくてはならないからです。朝早く私は直接パン屋に行き、おなかをすかせた子供たちのために、百五十個の焼きたてのパンを買ってきました。調理場には今日もアンネ、ダニエラ、クリスティアンがいました。皆、フローラと一緒に団結して、まさに料理のトップチームに成長していました。上の階で、盤上で子供たちの頭が湯気を立てている間、下の階では、鍋が湯気を立てていました。お昼には、フローラの新しいレパートリーのブラジル風チーズパンと緑色のレンズマメスープが、全員に振る舞われました。合間に私は十五分だけ時間をとって、小林アンナさんと一緒に、近くまでマラソンを見に、散歩に出ました。すでに熱狂的に見物している人たちがいました。

(表彰式)
 ザンクト・アウグスティンから来たライン・ジーク・ギムナジウム(メンバーは、クナウフ姉弟とヨスヴィヒ)が優勝しました。この優勝チームは、一局も負けなかったので、一ポイントも失わないまさに完全優勝でした。二位はノルトライン・ヴェストファーレン州のカストロプ・ラウクセルから参加したヴィリー・ブラント総合学校(ヘンナーケース、ゲーベルト、ラルコフスキー)、三位はバイエルン州のエルディング・ギムナジウム(クヴィアン、ドライアー、リーペ)でした。決勝に残れなかったチームのなかで最も優秀だったチームに贈られるピーチ賞は、ハンブルクのオルデンフェルデ・ギムナジウム(ポポフ、ローレンツ、カクツヴィン)が獲得しました。心からおめでとう!

 これらの優秀なチームはその活躍にふさわしく讃えられ、賞が与えられました。私がすばらしいと思ったのは、そのほかにもたくさんの賞が設けられていたことです。ハーラルトは、新しく設立された社団法人go4schoolにより、ハンス・ピーチ・メモリアル大会が少なくとも2007年までは開催できる見込みであると報告しました。参加者は皆、シュテフィがハンス・ピーチ・メモリアルと学校対抗囲碁団体戦の設立の際にすばらしい尽力をしたことに対して、当然すぎる感謝の意を表しました。

(それからもう一言−終わった後に)
 そして全ては急に終わりました。私にとってそれは後片づけとお別れを意味します。片づけをしながら、時々仕事の手を休めて、お客さん、引率者と生徒たち全員とお別れの挨拶をしました。全ての部屋は、翌日のために再びもとどおりにしなくてはなりません。アンネ、ダニエラ、クリスティアンが、最後のゴミ袋を外に運び出すのを手伝ってくれました。それから私はシュテフィと、簡単な決算をしました。特に私は、私が最後に鍵を閉めるまで手伝ってくれた、生徒たちとベルリンの囲碁仲間たちを誇らしく思います。

 最後に私が言いたいことは、私は、私たちがこの二年間に青少年の囲碁のために成し遂げたことに、心から満足しているということです。そして私は、皆が、協同して活動するなかで、自分たちが仲間であるという気持ちを感じたことと思います。このような雰囲気は、一緒に行った物事が、真の友情から育まれるときにのみ生じるものなのです。

(カリ・バルドゥィン・談、ハーラルト・クロル・記、浅井英樹・訳))