コンピューターは待っていた。 もうすぐ現れるであろう対戦相手を。 ゲームは一人ではできない。ゲームが完成するには、かならず相手が必要だ。 最高の作品を完成するなら、最高の相手でなければならない。コンピューターはずっと待っていた。彼が生まれる前から、彼女が現れる日を、ずっと待っていた。 世界最速のコンピューターKEI3(ケイスリー)。体育館3個分と言う巨大なコンピューターが収められているその施設は、今日は特別に改装されていた。普段なら多くの見学客が訪れて賑わっているその施設のカウンターは、綺麗にとりはずされ、広いフロントには、小さな東屋のようなものが組み立てられていた。まるで神殿のように、東屋は厳重に警備員が取り囲み、その周りには幾重も記者やテレビカメラが取り囲んでいた。記者達は、少しでも前にでようとじりじりとカメラ位置のポジション争いを続けていた。だがそんな取材陣をよそに、一歩もだれも近づけないように、警備員達は東屋に向けて綺麗に尻を並べて、周りの記者たちをぎっと睨みつけていた。 東屋の中で、本大会の主催者であり対戦相手のジョブズ氏は、出されたコーヒーに軽く口をつけた。そして、彼の脇に置かれたノートパソコンをチラッと見た。彼の会社が開発したプログラム、NYRORATOTEPP(ニャロラトテップ)、は既にスタンバイは万全であった。カーソルの矢印は、「ゲーム開始」のボタンが押されるのを、今か今かと待っているようだった。 ジョブズ氏は、そのままパソコンの端に映し出される時計の数字を確認した。9時55分を時計は指していた。試合開始まであと5分。対戦者側は、対戦前の挨拶や記念撮影をしないつもりのようだ。まぁいい。確かにそれは義務ではないし、ルール違反でもない。だが、本当にくるんだろうな? ジョブズ氏はそう思ってまた時計を見た。 「来たようです。」係員がジョブズ氏の心を見透かしたように言った。ざわざわと外では大きなどよめきが起こっていた。ストロボとカメラの撮影音は対戦相手側の要請で禁止されていたので、無音のデジタルカメラだけによって撮影されていたのであったが、そのカメラマンたちの圧倒的な熱気は、この東屋にも伝わってきた。ジョブズ氏はゆっくりと立ち上がって、東屋の入り口を眺めた。 「ここみたいね」美しく背の高い若い女性が入ってきた。つづいて、若い青年、容姿が良く似ていた。彼女の弟だろう。そして、その青年に背負われて入ってきた、女の子。彼女が今日の主役だ。 真っ白な長い髪と陶器のような白い顔。だが彼女は、眠ったように目を閉じ、じっと動かずに、青年の背中に抱きついていた、まるで人形のようだとジョブズ氏は思った。 「外の人達にウルサイって言ってやって。今度、声を出したらぶっ殺すって言ってやって。」と若い女性は係員にどなった。 係員は当惑しながら。ジョブズ氏のほうを見た。ジョブズ氏は「静かな対戦を希望する。こちらが騒がしいと判断した人間は即刻つまみ出す。と私が言ったと伝えなさい。」と英語で言った。係員はジョブズ氏の英語を理解したようで、慌てて外へ出て行った。 それを見た女性は、営業スマイルを作って手を差し出した。「始めましてミスタージョブズですね。私は、須磨加子、こっちが弟の鷹取(たかと)、そしてこっちの背中にセミみたいにくっついているカワイ子ちゃんが、お待ちかねの神戸ミコちゃんよ。」優秀な秘書が同時通訳で、ジョブズ氏になにやら訳しているらしい。背中にくっついているセミって、なんて訳すんだろう? 鷹取は少し可笑しくなった。 「マイケル=ジョブズです。今日の日をずっと待っていました、お会いできて大変うれしい。」と秘書はジョブズ氏の当たり障りのない返事を姉に言っていた。姉は「ないすつみーつー」と言ってジョブズ氏と握手をした。なんて発音だ。僕は笑いをこらえたが、同時にジョブズ氏は僕にも手を伸ばしてきたので、同じように「ないすつみーつー」と言って、とっさにジョブズ氏と握手してしまった。なんてこった、姉を笑えない。ジョブズ氏は続いて、ミコにも手を差し伸べていた。気付くとミコは目を覚まして不思議そうにジョブズ氏を見ていた。僕は笑って、「ちょっと待ってください。」とジョブズ氏に言った。なんだかを秘書が言うと、ジョブズ氏は伸ばした手を下ろした。 僕はしゃがんで背中のミコをゆっくり下ろした。ミコは名残惜しそうだったが、僕がしゃがむと姉に手を引かれてしぶしぶ、背中から引っぺがされてしまった。姉はミコの手をそのまま引っ張ってジョブズ氏の前に差し出した。ジョブズ氏は中腰になって、ミコの手を握ると少し当惑した表情をしたが、すぐに「ハロー」と優しく言った。ミコはじっとジョブズ氏の顔を見ていたが、やがて「かんべ みこ です。」と小さな声で言った。姉はミコの頭を撫でて「うん、よくできた。」と言った。褒められたミコは姉の方を見ると嬉しそうに笑った。 「ジョブズ氏は、たいへん可愛らしいお嬢さんです。と言っておられます。今日の衣装も大変似合っています。それは宗教的意味の衣装でしょうか? と質問されています。」 秘書は、ジョブズ氏の言葉を伝えた。そう、ミコはまさに今日は巫女装束を着ていた。と言うより姉に着せられていたのだった。しかしジョブズ氏は巫女を知っているのだろうか?「ミコと言う名前は、神殿に使える女性の事を意味します。今日は、その名前にあわせたコーディネートをしてきました。」と姉は勝手な解釈で返答していた。だいたいミコの名前は巫女ではなく、ただのカタカナのミコのはずなんだが。 「きょうは こんぴゅーたの あくま たいじにきました」突然ミコはそう言って、ちょこんと頭をさげた。さっきの秘書の言っていることが分かっているのだろうか? 秘書がなにやら話すと、ジョブズ氏は、「はっはっははは」と笑って英語で何かを言った。 「悪魔を退治する為に、神職の衣装を着てきたと言うことですね。大変結構です。とジョブズ氏はおっしゃっています。」秘書が訳した。 「申し訳ありませんが、そろそろ時間です。」係りの人が消え入りそうな声で割って入っていった。さっきのジョブズ氏の言葉を気にしているようだった。僕は、碁盤の前にミコを連れて行こうと、ミコの右手を握った。ミコは手をつないでもらって嬉しいのか、僕の方を見ると嬉しそうな顔をした。しかし、なんて冷たい手なんだろう。ジョブズ氏も驚いただろうな。 ふと僕は、さっきの言葉がミコの遺言になるんだろうか?って思った。この場合、遺言って言うのだろうか? とも思った。どうでもいいや。どっちにしろ、あれが最後の言葉になる可能性は高かった。もし、チャンスがあれば、もっとまともな言葉を聴きたかった。いや、なんだっていい、とにかくまたミコの声を聞きたかった。僕は姉の方をみた、姉も同じような事を考えていたのか僕の方を見ていた。姉は、今にも泣き出しそうなのを必至でこらえている目をしていた。姉の目には、僕も同じように映っているのだろうか? 僕と姉に引かれて、ミコは碁盤の前のソファーの長いすに座った。この対戦は特別にソファーを用意してもらった。ミコの死に場所が冷たい畳じゃ可哀想だ。ミコの右手は僕の手を離さなかった。僕はそのままミコの右に座った。左側には姉が座った。腰掛けた姉の顔をミコは見ていた。姉は、さっきの表情とは打って変わってニコニコ笑っていた。そうして、ミコは振り返って今度は僕の顔を見た。誕生日のケーキを目の前にした子供のような表情だった。そうかミコは本当に今日を待ちわびていたんだな、と僕は思った。 「時間になりましたので、始めたいと思います。」係員が緊張した面持ちで言った。 「じいちゃんが死んだらしいよ」姉は電話を置いて、僕にそう言った。 「えっ、・・・・じいさんが?」僕には、生きている祖父は一人しかいなかった。元プロ棋士で、今は島で娘と二人で暮らしている。母方の祖父だ。十数年前にプロを引退し、それ以後、島に引きこもってしまい、毎日、娘と囲碁を打って暮らしているらしい。娘と言うのは養子で、それも、孫のような歳だった。何故彼女を引き取る事になったのか? そう言う詳しい事情は良く知らなかったが、小学校上がる前の小さな女の子を祖父は引き取った。それも、知的障害を持っている子であった。僕は何度か彼女にあったが、同じ年頃のはずなのに、ほとんど話もせず、碁盤に石を並べている姿しか記憶に無かった。なにより彼女は成長が極めて遅く、いつまでたっても子供のままだった。 「あの子がいたよね。どうするんだろ?」姉も彼女の事を思い出したようだった。 「引き取るって事になるんかな?」僕は言った。事実上、祖父の直接の血縁者は僕らしかいなかった。 「僕らが断れば、どこかの施設って事になるんじゃない?」 「そうよねー。」姉はそう言って、少し不安な表情をみせた。 世界一の橋を渡って島の海岸線を、車で少し走ったところに、祖父の家があった。家の前の急な坂道には予想以上にたくさんの車が集まっていた。どうやら、お弟子さん方と、マスコミ関係者らしかった。もう引退してずいぶん経つのに、こんなに人が集まった事に、ちょっと僕は驚いた。 誰が雇ったのか、出迎えた係員に案内されて、奥に入ると、親戚一同が集まって、なにやら相談していた。僕らは適当に挨拶を交わすと、彼女の部屋へ連れて行かれた。どうやら親戚の中でも僕らが第一当事者って事は決定済みのようだった。部屋に入ると、彼女は座布団の上に静かに座って碁盤に石を並べていた。その姿は僕のイメージにある彼女そのものだった。ただ、幾分、背が伸びて、銀色の髪が長くなっていた。凛とした姿勢で碁石を並べる姿は、座禅を組む僧侶のような雰囲気にすら感じた。 「おじいさんが亡くなられた時は、ずいぶん泣きましたが、やっと落ち着いて、さっきから石をずっと並べているんです。」とヘルパーさんが言った。姉はいくらか声をかけてみたがミコは無反応なままであった。姉はまた不安そうな表情をしていた。 ミコと一緒に暮らすようになって、その姉がミコを一番可愛がるようになったのは、僕にはかなりの驚きであり、予想外の事だった。ミコは幼児くらいの知能しかなかった。とは言え、泣いたりわめいたりするのではなく、一日、ただ黙々と碁石を並べて続けているだけで、他に何も興味をもたない。って言う姿は確かに異様ではあったが。一方で姉は、ミコには妙に興味を持ちはじめていた。それも、日がたつにつれて、溺愛と言っていい様相を見せ始めた。ミコは碁石を並べるのを中断されるたびに、不機嫌そうな顔をしたが、姉は次から次へと新しい服を買ってきては、ミコに着せて楽しんでいるのだ。どこでどうして屈折した心理が、姉に完成したのかは分からないが、「あたし、本当は妹が欲しかったのよ」と言う言葉を、そのまま信じる他なかった。ある日、姉はミコを連れてどこかへ行った。帰ってくると、ミコの胸には白いペンダントがぶら下がっていた。「いいでしょう」姉は自慢げに言った。よく見ると、ペンダントは白い石の周りに銀色の輪が巻かれて、細いチェーンでぶら下げられるように吊金具がつけられていた。白い石は碁石だった。 祖父が死んだとき、ミコと祖父は囲碁を打っていたらしい。祖父は最後の石を置こうとして、そのまま倒れて帰らぬ人となった。脳卒中だったらしい。ミコは、祖父が最後に置こうとした白石を、その後ずっと持っていた。 「これじいちゃんの形見?」ミコが握っていた石は、綺麗なアクセサリーになっていた。きっとミコからとりあげて細工をしている時は、たいへんな騒ぎだったに違いない。なにせ、ミコは片時も、石を手放さないのだから。「きれいな銀細工をしてもらったんだ。よかったねミコ」とミコに言うと、そんな出来事が想像できないくらいに、ミコはニコニコしていた。 「シルバーじゃないわよ、プラチナよプラチナ。」姉が口をはさんだ。「プラチナよープラチナ。」ミコが真似て言った。 「プラチナ? なにそれ?」僕はプラチナと言う名前の金属を聞いたことがあったが、それがいったい何なのか? 正直なところ今までうまく理解をしていなかった。それが、金よりもはるかに高価な金属であると言うことを、その後しばらく続く、質素な食事でしみじみと知る事となるのだが。この時の姉はニヤニヤ笑っているだけだった。 姫路先生から電話がかかったのは夕方だった。姉はまだ帰っておらず、ミコはいつもどおり、もくもくと碁盤に石を並べ続けていた。僕は電話を取ると、姫路先生はすぐにそちらに向かうと告げた。 「いまからですか?」 「そうそう、今から飛行機に乗って、最終便でまた東京に帰る。だから空港まで彼女を連れて迎えにきて欲しいんじゃよ。」 「えぇぇ、かまいませんけど、えらく急ですね。」 「そうそう、思いたったらいても立ってもいられなくなってね。」 「どうしたんですか?」いい歳して、まったく元気なものだと僕は思った。 「あぁそうそう、つまりミコちゃんの事じゃよ。えーと、なんだ、そうそう、つまり、お姉さんと話していた、神戸君の追悼記念セットを出す話し。」 「あぁ、それだったら、姉に言っておきます。」 「いや、そうじゃなくて、その追悼記念で、神戸君の最後の棋譜をファックスしてもらったじゃないか。」 「えぇ、そう。ミコが書いたやつですね。うまく送信できてませんでしたか?」そうは言ったものの、わざわざファックスを取りに慌ててくるだろうか? 僕はいぶかしんだ。 「いや、ちゃんと送られてきたんだが、どうもおかしいんじゃよ。」 「えっ、ミコが間違えてたんでしょうか?」 「わしも、最初、そう思った。しかし。」姫路先生の声は明らかに興奮してきていた。 「えーと、なにか不都合でも?」 「いや、不都合じゃないんだ。そうじゃなー。最初から話すと。あの棋譜には神戸君が白でミコちゃんが黒って、書いてあったんじゃが。」 「えぇ確かそうですよ。ミコは、祖父が最後に握っていた白石を、今も持っていますよ。そうそう、綺麗なペンダントにしたんですよ。今度お見せしますよ。」 「あぁ、ありがとう。それはともかく、あの棋譜はおかしいんじゃ。」 「おかしい?」 「普通・・・いやつまり、強い棋士と弱い棋士が対戦する場合、置石をする。ハンデをつける訳じゃな。」 「はぁ、なるほど」 「囲碁の場合、最初に石をいくつか置いておく。」 「えぇ、それぐらいは知っていますよ。」 「ところがこの棋譜は、白石が三石置いてあるんじゃ。」 僕は電話で話しながら、ファックスの下の引き出しを探ってみた。その引き出しの中に原稿が入れたままになっていたはずだ。 「じゃぁ、やっぱり、ミコが白石だったって事じゃないんですか。単純にミコが勘違いしてるか、なにかこだわりがあるのか?・・・そんな」 「わしも、最初そう思った。だが、その棋譜を読んでいくと、そんな生易しいものじゃないことに気づいたんじゃ。」 「はあ」僕は、原稿を見つけたので、そこに目を落とした。たしかに、なにも書かれていない白い石が3っつ。それから、黒い石が(1)で始まっていた。 「この、黒が強いんじゃよ。」姫路先生はどうだと言わんばかりに、力強い口調で言った。 「えーと、じゃぁ、やっぱり、黒が祖父なんでは?」 「いや、神戸君は白じゃ。神戸君の棋風はわかるし、なにより、この黒は神戸君より強い。」 「えぇ・・・・・・? じゃぁ話を総合すると、ミコは強くて、うちの祖父はかなりモウロクしていたって事ですね。」 「そんなことはない。神戸君の白は決して弱くはない。この棋譜を見る限り、モウロクなんぞしていない。」 「でも、ミコが黒なんでしょ。それでは祖父よりミコの方が強いって事になってしまいますよ。」僕はいまいち、何がなんだか分からなくなってた。 「そうなんじゃ」姫路先生は的を得たりと言った感じで断言した。 「いや、それにしても・・・。ちょっと待ってください。それじゃ、最初の白の3石は? 祖父がハンデをもらっていたって事ですか?」僕は頭が混乱してきた。 「それを確かめに今から、行くんじゃよ。」 「えーと、黒がミコで、白が祖父で、さらに祖父は3石のハンデをもらってて?」 「だとすれば、この黒は神がかった強さと言うことになるんじゃよ。」 「神がかり?」僕は原稿を持ったまま、ミコの側まで歩いていった。ミコはいつもどおり、絨毯に座り込んで、もくもくと石を並べていた。そう言う風にミコが石を並べている間は、ミコは周りに何が起こっても気づかない。僕は、右手をポンポンとミコの頭に置いた。ミコはやっと僕の方を見上げた。 「そうじゃ。なんせ、黒は三石付の白に互角で戦っている。このままでは、どっちが勝ったか分からん。」姫路先生はすごく興奮している様子だった。 「いま、ミコに、もう一回聞いてみますね。」ミコは思考をじゃまされたので、恨めしそうな眼で僕を、じーと見上げた。 「ああぁちょうどいい」姫路先生は嬉しそうに答えた。 「ミコ、これ、じいちゃんが白でミコが黒に間違いないのか?」僕は、原稿を見せていった。ミコは黙って、うなづいた。 「間違いないのか? ミコが白でじいちゃんが黒じゃないの?」今度は黙って首をふった。 「ミコは、自分が黒だと言ってますねー。どうなってるんでしょうか?」 「うん、そこでだ。ちょっと聞いてみてくれないか? 次の神戸君の手は、なんだと思う?って」 「次の手ですか?」僕はミコに原稿を見せて言った。その時、ミコは泣きそうな顔をしているのに気づいた。しまった。じいちゃんの事を思い出したようだ。だが、もうしかたない。 「ミコ。じいちゃんは、この次、どこに打ったと思う。」僕はそう聞いた。ミコはすばやく指をさして、「ここ、か、ここ」と言った。 僕は、ますを数えると、姫路先生に次の手を言った。 「ほぉー」姫路先生は驚愕したような声をだした。 「どっちの手がいいか、聞いてくれないか?」姫路先生はまた興奮しながら言った。 「こっち。こっちなら、じいちゃんの勝ち。こっちならミコが勝ち。」とミコは小さく答えた。僕はそのとおり、姫路先生に伝えた。 「すばらしい」そう言って姫路先生は黙ってしまった。僕は二人の間に置いてけぼりにされたような、感じだった。姫路先生は「すぐに行くから」と言って飛行機の到着時間を言った。そうして、「空港内にある高級寿司店でご馳走するから、夕食は食べずにいてくれ。」と姉に伝えるように言って、電話を切った。 しばらくして加子が帰ってきた。話しを聞いた姉は、囲碁の事はどうでもよさげで面倒くさそうにしていたが、寿司と言う言葉を聞いて、ご機嫌で支度を始めた。「ミコちゃん、飛行機見にいこーか? なに着ていこーか?」と楽しそうにミコに話しかけていた。 寿司屋に入って何も頼まず、姫路先生はさっそくマグネット式の碁盤を広げた。僕と姉では恐縮してしまうような店であったが、緑茶色の和服を着て袴をはいた姫路先生は、さすがに堂々たる威厳で、店員は「注文がお決まりになったら、お呼びください。」とすごすごと立ち去るほかなかった。ミコは久しぶりにまともな対戦相手が見つかって、ひどくご機嫌だった。しかも、普通なら簡単には対局することができないような、プロの上級者だ。ミコはニコニコしながら次々とマグネットの石を置いていった。一方で、姫路先生はずっと考え込んでいるようだった。まるでミコが次々と難問を繰り出し、姫路先生が解答を一人で考えている生徒のようであった。僕と姉は、憂鬱な気分で、これから長々と続くであろう対戦を覗き見していた。しかし、石が碁盤をさほど埋め尽くさないうちに、姫路先生は「参った。」と言った。同時にミコは「ありがとうございました。」と答えた。 「すばらしい」姫路先生はまた言った。僕はあまりにあっさり終ったのと、姫路先生が負けたらしいのに、異常に興奮している様子に、なにがなんだか分からない感じだった。一方、姉に関しては、そんなことはどうでもよくて、やっと寿司が食べれるという現実が最大の関心のようだった。 「すばらしい、すばらしい」と姫路先生は繰り返した。 「えーと、姫路先生?」僕は事態を飲み込めないまま姫路先生に声をかけた。 「すばらしい! 須磨君、彼女は天才だよ。」姫路先生は興奮を抑えきれない様子で声を張り上げた。 「えっ、えぇ、どうも・・・。よかったね。ミコ、先生が褒めてくれたよ」僕はなんと答えてよいのか分からず、ミコの頭を撫でてごまかした。ミコは勝ったから褒められたのだと思っているようだったが、ニコニコして喜んでいた。 「この子は強い。」姫路先生はまた言った。 「先生、あまり時間もないので・・・」姉が言った。 「おおぉそうじゃった。待たしてすまん。」そういって、姫路先生は躊躇せず「特上」を注文した。 「一人前はワサビ抜きで、お願いします。」と姉が付け足した。 日本棋院の受付で、姫路先生は遅れるそうなので、しばらく待つように伝えられた。 「棋院の人に相手をしてやってくれと言われたんだけど、この子?」と中学生くらいのボーイッシュな女の子が、ぶっきらぼうに話しかけてきた。姫路先生が適当に時間つぶしになるように手配してくれたんだろうか? どうやらかなり待たされそうだ。「うん」ミコは分かっているのかどうか、勝手に答えていた。 机の上に碁盤が開けられて、ボーイッシュの女の子が、「先にうちなよ」とやっぱりぶっきらぼうに言った。「うん」ミコは、そう言って、黒い石を真ん中に置いた。ボーイッシュの女の子は、少しムッとした表情になって、白石を隅の方へ置いた。 ミコとボーイッシュの女の子の対局は、あいかわらず僕にはさっぱり分からなかった。ただ、途中からボーイッシュの子は泣き始めていた。最初は目からあふれ出た涙をぬぐっていたが、あっと言う間に涙でぐしょぐしょになり、僕がどうしようか焦り始めた頃には、どこともなく(たぶんトイレへ)駆け出していってしまった。後に残された、僕と姉とミコは呆然としているだけだった。 ミコは僕の方を見上げて、おびえたような表情をしていた。あぁそっかミコは自分が何か悪い事をしたのかと思ってるんだ。僕はそう気付いて、「大丈夫だよ」と言って頭をポンポン撫でた。ミコは、少し安心したような表情になった。 しばらくして、ボーイッシュな彼女が戻ってきて、僕らに謝った。「すいません、勝手なことをして、すいませんでした。」とさっきとはうって変わったような大人しい物言いだった。 「彼女はプロになるんですか?」 「えっ、あぁ、たぶんそういう事になるんだと思うんだが、姫路先生に呼ばれて、今日は来ただけなんで、今後どうなるのかは、ちょっと分からないと言うか・・・。」僕の返答を聞いているのか無視しているのか、彼女はミコを見つめて「朝霧舞子です。」と言って握手の手を差し出した。 「握手わかる?」僕がミコに言うと、「うん」とミコは答えて、「神戸ミコです。」と言って舞子の手をギュゥっと握った。 「神戸さんと言うと、この前亡くなった・・・神戸プロのお孫さんですか。」質問すると言うより断定したように、舞子は言った。 「ええぇ、まぁそうです。」厳密には孫ではなく、娘で養子なんだが。なんだか説明するのがめんどくさくなって、僕は適当に返事した。 「おや、新しい人かい?」長身の若者がひょうひょうと舞子の後ろに近づいてきた。 「えぇ、たぶんそうなると思います。この子は神戸ミコです。よろしくお願いします。」と僕は軽くお辞儀をした。ミコもつられててお辞儀をする。 なかなかよく気がついた。僕はミコの頭をまた軽く撫でた。ミコは嬉しそうに笑った。 「舞子ちゃんは強いでしょう。これでも将来の女流名人と期待されてるんですよ。」 「女流ではありません、ちゃんと正式なタイトルを取ります。」と女流と言う言葉に反発したように言い放った。 「ちょっとツンデレ気味だけどね。」と言って、男は笑った。 「ほら、神戸プロのお孫さんです、それに笑ってられませんよ。この子、三木さんよりも強いですよ。」と舞子はムッとしたように言った。三木の目が冷ややかに光ったように見えた。 「申し送れてすいません。三木と言います。舞子ちゃんの対戦も終ったようですし、一局しましょうか。」そう言って、三木はミコの前に座った。ミコは喜んで、また真ん中に黒石を置いた。 三木がどれほど強いのかは、僕にはわからなかったが、三木は呆然と碁盤を眺めていた。参りましたという事なんだろうか? ただ、何も言わず、打つのを止めてしまった。パクパクと金魚のように口だけが動いている。横では、舞子がニヤニヤと笑っていた。 三木と舞子の周りにはいつの間にかギャラリーが集まっていた。いづれも若いプロかプロの卵なんだろう。三木の敗北が明らかになったようで、「次、誰がやる?」と言う会話が飛び始めた。どうやら、この道場破りを日本棋院として、「ただで」帰すわけにはいかないということらしい。「次は僕がやります。」と一人の高校生くらいの子が言った。誰も異論を唱えないからには、この中では一番強いんだろう。彼は、茫然自失になっている三木の肩を叩いて「三木さん」と声をかけた。三木は「あぁ」と力なく答えて立ち上がった。代わりに座った少年は、三木の石を片付けながら「相生です。」と言った。ミコは「神戸ミコです。」と言って楽しそうにまた黒い石を真ん中に置いた。 「どうだい、待たせたね。」姫路先生がいつの間にか背後に現れて、声をかけたのは3人目の相生君が終わり、4人目の洲本氏との対局が始まってからだった。まったく、いったいどれだけ待った事やら。「えぇ少し」と僕は答えた。「ミコちゃんは誰と対局したんだ?」遅刻の理由も言わずに姫路先生は尋ねた。「僕です。」相生君が答えた。 「どうだった?」 「えーと、なんて言うか。天才っているんだ。って感じです。」 「わはっはは、わしもそう思ったわい。彼女はわしより強いんじゃ、負けても気にするな。」姫路先生の言葉にギャラリーはどよめいた。ただ、相生君だけは「ええ」と答えた。 4人目が既に窮地に追い込まれているのを見て、姫路先生は慌てて、「播君を見なかったか?」と相生君に尋ねた。「ここに、居ます。」スーツ姿の中年の男性が、ミコの周りに集まった群衆の後ろから声をかけた。 「そろそろ来る頃と、思ってました。」姫路先生の遅刻は折込済みって言う風だった。 「あぁ、ちょうど良かった。今日はミコちゃんがどれくらい強いか試したかったんじゃ。相手してやってくれ。」姫路先生はそういった。 「彼女が強い新人ですか?」ちょっと日本人ではないらしいアクセントと喋りで播氏は尋ねた。 「そうそう。呼び出して悪かった。神戸ミコちゃんだ。彼女のレベルは、ほら、見ればわかるだろ。」姫路先生がそう言うと、碁盤の前で陣取っていた一群が慌てて場所を開けたので、播氏は進み出て、碁盤を覗き込んだ。 「うーん。なるほど、打ちましょう。時計を用意してください。」ほんのしばらく見つめると、播氏は答えた。 「ちょっと待ってください。もう、ここに着いてから、ミコはずっと打ちっぱなしなんですよ。ちょっと休憩させてくれませんか。」姉が慌てて言った。 「おお、そうじゃった。ミコちゃんに土産があるんじゃ。」そう言って姫路先生は、紙包みを取り出した。なかからは、独特の香ばしい匂い。どうやらタイヤキが入っているようだった。「播君、いっぷくしよう。タイヤキは中国にはないじゃろ。食べた事はあるかい? 相生君、お茶だ。事務の人に言ってきてくれ。」そう言って姫路先生は、また碁盤を覗き込んだ。 ミコはタイヤキを食べたのは初めてだったらしく、いたく気に入ったようだった。 その後、播氏との対局は別室で、おこなわれた。 ギャラリーの数は相当になっていて、途中からは記者やカメラマンも来ていた。舞子が言うには播氏はまだタイトルこそ持ってないものの、タイトルリーグ常連のトッププロなんだそうだ。「それが、突如、何処とも知らずやってきた美少女に、敗れるような事があったら、大変な話題になるだろう。」と言うことらしかった。 もっとも、やはりこれまでの4人と同じように、播氏も途中で投了して頭を下げた。そしてその瞬間、大量のシャッターが切られて、ストロボが焚かれた。ミコはあまりのストロボとシャッター音に驚いて、おびえて姉に抱きつきいた。姫路先生が慌てて記者に「勝手に写真をとるな」と怒鳴ると、その声で、とうとうミコは泣き出してしまった。姫路先生は「しまった。」と言う顔をした。 実際にミコは強かった。ほとんどの対戦相手は、終盤を見ることなく投了した。時々、最後まで頑張る棋士もいたが、結局は大差での敗北する事になった。ミコは勝ち続けた。実際に負けたとこを見たことなかった。いつしか不敗神話が生まれていた。 マスコミやネットでの人気はすぐに爆発した。僕らは早々とホテル住まいになってしまい。姉はさっさと仕事を止めて、ミコのマネージャーみたいになってしまった。もっとも、毎日のように服を買ってきては対戦相手が驚くような格好をさせるのが、マネージャーの使命と、勘違いしているようではあったが。 大久保本因坊との対局がエキジビジョンマッチとして実現した。大久保本因坊は全部で四冠を持っていて、事実上、日本で最強と評されていた。それがプロでもない少女と対戦するなど、普通では考えられない事であったが、世論と人気が後押しした。大手マスコミが急遽、賞金と日程を組んでゴールデンタイムにテレビで生中継と、前代未聞の対局となった。 今までで一番強い相手と戦えると聞いて、ミコはいつになくご機嫌だった。「神戸ミコです。」とかつてない元気な声で大久保本因坊に挨拶した。一方で大久保本因坊は濃紺の和服を着て神妙な面持ちで、「大久保です。宜しくお願いします。」と、まるで学生のように答えた。 例によって、僕には分からなかったが、姫路先生によると、歴史に残るかつてない熱戦だったらしい。 「挑戦者、神戸ミコさんの2目半勝ちです。」アシスタントの女性がミコの勝利を淡々と宣言した。 「ありがとうございます。」ミコはとても嬉しそうな声で挨拶をした。だが、その瞬間、ミコはまるで電池が抜けたようにコテっと横に倒れてしまった。 「どうしたのミコ?」姉が抱き起こすと笑いながらミコは「力がでないの」と言った。 「疲れたのね、よく頑張ったわ。」姉はそう言ってミコの頭を撫でた。ミコは目を細めて喜んでいるようだった。まるでネコみたいだ。と僕は何気に思った。 姫路先生が持ってきた、その棋譜を見るなり、ミコは釘付けになった。棋譜を両手で持って凝視すると、じーと、20分間ほど動かず固まったままだった。 もしかし息もしてないんじゃないかと、心配しだしたところ、ミコは小さくため息をしてつぶやいた。「きれい」・・・と。 「名人よりパソコンの方が強いの?」姉が不思議そうに聞いた。 「パソコンじゃないよ、コンピューターだよ。」 棋譜は昨年、事実上の世界一を決めるジョブズ杯の決勝。ハワードジョブズ社が作ったコンピューター「ニャロラトテップ」が、インタービジネスネットワーク社の「パワーブルー」を破って7年連続の防衛に成功した試合だった。「ニャロラトテップ」は第一回大会に出場以来、7年連続優勝で、人間、コンピューター共に全ての対局に対して未だ不敗だった。 「不敗なんだ。ミコと同じだね。」 「不敗ってなに?」ミコが聞いた。 「負けたことがない。一番強いって事よ。」 「そっか」そういって、ミコはまた棋譜を睨み始めた。 そうして、「ミコもこの人と打ちたい。」とつぶやいた。 ジョブズ杯は、事実上誰でも参加できた。桁違いの賞金(百億程度)に世界中のプロが参加して、一方で参加者のランキングが常に公表されていた。ランキングは対戦成績から毎月変更される仕組みになっているのだが、7年間常にランキング1位は、ハワードジョブズ社のコンピュータープログラム「ニャロラトテップ」が守り続けていた。しかもこの7年間、人間の上位ランカーは次第に減っていき、現在では唯一、大久保本因坊が十位につけているだけだった。つまり、一位から九位まで、いまや全てコンピューターが席巻するまでになってしまった。コンピューター対コンピューターの戦いは、事実上メーカーの技術力を競う競技になってしまい、広告宣伝効果と企業同士のプライドをかけて、それなりに各社は強力なコンピューターを送り込んできた。だが、結局のところ「ニャロラトテップ」の一人勝ちが続き、どの会社が「ニャロラトテップ」を打倒するか? と言う話題に、人間が勝てる見込みはもはや皆無と言うのが、多くの見解であった。コンピューターと人間の差は、この7年間、日に日に開き続けたのである。 世の中の期待は、もはやミコがニャロラトテップを破る事に集中していた。ミコはジョブズ杯でも、快進撃を続けて、次々と世界中のプロをうち破った。そして次の対戦相手は世界ランキング九位のコンピューター「スプリング8」に決まった。 コンピューターとの対戦は、コンピューターの指示した場所に人間が石を置く。それだけである。もっとも人間は誰でもいいので、最初の一手は、野球の始球式と同じように有名人やアイドルが登場するのが、ほとんどだった。ジョブズ杯では登録さえしておけば何人でも参加が可能で、何某の募金をした人間が一手づつ次々と交代で打つ場合もあった。相手がミコだった時は、募金は過去最高額だったらしい。 ミコの場合、ミコと姉と僕の三人を登録していた。そうすれば、対局場で三人が一緒に座っていても問題なかった。 「スプリング8」との対戦は、有名アイドルのショウコちゃんが一手目を打つことになっていた。ショウコちゃんは、対局前にミコの服を絶賛した。今日のミコは黒い西洋風のお人形さんのような服を着ていて、姉はご機嫌でショウコちゃんと服の話しをしていた。係員が時間を告げるとショウコちゃんは「ミコちゃんの大ファンです。がんばってください。」と言った。対局はミコの勝利だった。 ミコは大久保本因坊との時のように疲れきって、終るなり、姉の胸元に倒れこんだ。姉はヨシヨシとミコの頭を撫でた。 東京でのホテル暮らしが続いた為、地元に帰ったのは久しぶりだった。 留守電には驚くほどの数のメッセージが入っていたが、その中で豊岡と名乗る医師が複数回電話をかけていた。 そういえば葬式の時に、ミコの主治医であり、ミコの症状について話があるので、近く診察にくるように。との言伝をヘルパーさんから聞いていたのだが、このところの騒ぎですっかり忘れていたのだった。 「ミコちゃんの症状は、率直に言って原因不明です。」豊岡医師は言った。 「原因不明?」 「彼女が、神戸さんのところに来たころから、診察していますが、原因不明です。神戸さんは他にも海外を含む、いくつかの病院で診察しましたが、やはり原因不明です。ここに他の病院のカルテもあります。神戸さんが持ってきてくれたものです。」 「しかし、ミコは、なんらかの病気で苦しんでいるんですよ。まさか、健康そのものって言う訳でもないでしょう。」 「わかっています。ただ現代医学では原因は不明ですし、同様な症状はまったく事例がありません。」 僕は唖然とした。 「ただミコちゃんの診察をずっと続けてきて、ある種の可能性を、私は考えているのです。」 豊岡医師はつけたした。 「どう言うことですか?」 「これは医学的根拠はまったくありません。」 「医学的根拠がない?」 「そうです。むしろ私の想像、推測でしかありません。それでよろしければお話しします。」 「お願いします。」 「確認しますがこれは、まったく医学的な見地の話しではありません。ですんで、お話ししますが、まったく私の想像で、医師としての見解じゃありません。」医師が医学を否定したような宣言だった。それだけに豊岡医師は慎重に前フリをしていた。実際、それだけ非科学的な事だというのは、すぐに分かったのだが。 「お願いします。」僕はもう一度言った。 「ミコちゃんの身長体重はこの15年、ほとんど変っていません。生理もないし、第二次性徴もまったくありません。」 「はい。」僕はうなづいた。 「髪には色素がなく、眼は色盲色弱」 「色盲?」・・・僕は知らなかった。そして自分のうかつさに愕然とした。 「気付きませんでしたか? 彼女はモノクロの世界しか見えていません。・・・・それから聴覚も非常によくない。」 「はい」これは良く分かった。ミコは人の声以外はほとんど聞こえていないような事がよくあった、姉と僕は交通事故に合わないかと、いつもハラハラしていた。 「皮膚のメラニン色素は極めて少なく、筋力、骨格もとても弱い。それからここからが本題ですが、脳の発達も囲碁以外は極めて遅れています。」 「はい」まったくそのとおりであった。傍目にはミコはボロボロで満身創痍と言っても過言ではなかった。 「ただ、ミコちゃんは囲碁の才能だけがずば抜けている。この様に脳障害を負った子供が、何かの能力に特化すると言うケースは、まれにあるんです。ただ原因は不明ですが。」 「ミコもそうだと言うことですか?」 「わかりません。ミコちゃんの場合、もっと進んだ・・・と言うかさらに特化した。そんな風に考えています。」 「囲碁に能力を吸われてしまったのでしょうか?」僕は冗談のように言ったつもりだった。 「そうですね。私はそう考えています。」豊岡医師はまじめに答えた。 「ミコちゃんの場合、意識的か無意識はわかりませんが。意図的にやっているのではないかと考えています。」 「どう言うことですか?」 「簡単に言いますと、例えば強打者が打席に立つと、集中して彼の耳には観客の声援とかまったく聞こえなくなるらしいんですよ。」 「それと同じようなことが起こっている、と言う事ですか?」 「そうです。繰り返しますが、これは推測ですが・・・。例えば、昔のパソコンはメモリーとかが足らなくなったりよくしたんですよ。すると、ゲームとかをしているときにうまく動かなくなる。そこで、余分な機能を削除して、ゲームプログラムを優先したりしたもんです。まぁゲームじゃなくてもいいんですが。そう、大きな囲碁のゲームを動かす為に、いらない機能を切ってしまう。パソコンには使わない余分な機能とかいっぱいあるじゃないですか。マイクとか。そこで音声入力プログラムを削除してプログラムを軽くする。囲碁ゲームに、高機能の音声出力もいらないから削除する。画像出力もモノクロ2色あればいいから他は削除する。」 「それで色盲だと?」 「かもしれません。しかし、もっと深刻かもしれません。大きなデータや、プログラムをインストールする為にハードディスクの余分な情報を削除したりしますよね。映像を削除、画像を削除。音声データを削除、ワードやエクセルも削除、あと何がありましたっけ? なければウインドウズの機能も、生体維持に関する以外は削除してしまう・・・。」 「・・・生体維持?」僕はぞっとした。豊岡医師の言っていることがやっと飲み込めてきたのだ。 「ウインドウズに生体維持はおかしかったですね。しかしミコちゃんは無意識下で、そうやっているのではないかと思います。囲碁と言うプログラムをより効率的に走らせる為に、脳の容量を無理に開けている、そして囲碁の為に使っている。本来、さまざまな能力が発達すべき場所の脳細胞を、片っ端から囲碁に転用している。例えば、ワードは言語能力、エクセルは計算能力、画像処理能力を大幅に削減した為に白黒しか見えなくなり、音楽に関する能力や芸術的な能力、理解力や認識力、記憶力、さまざまな脳の機能を削除して、代わりに囲碁に使っている。傍からは知能障害に見えますが、脳は最大限、囲碁にのみ活用されて、しかもそれでも不足している。それだけではないでしょう、おそらく小脳の脳細胞も使っている。小脳をはじめいわゆる運動神経と呼ばれている能力、そんな事に余分な機能を使わない為に、身体は生存に最低限の機能しか増やさない。結果、身長は伸びない。成長する為に無駄なエネルギーを使わない為、体は小さなままだし。髪を黒くするなんて必要のない事だし、繁殖の為の生理なんて、もっとも無駄なエネルギーの典型でしょう。」豊岡医師は一気に話すと、小さく息を吐いて、僕の顔を見つめた。僕は一体、どんな顔をしていたのだろう? たぶん唖然として困惑していたのだろう? 「そんな事があるんでしょうか?」 「ありえません。何かの能力を増やす為に、他の能力の成長を停止させる。そんな事例はいまだ世界中で報告されていません。だから、これは私の想像なのです。」 二人の間にしばらく沈黙が流れた。 「つまりミコは、脳細胞のほとんど囲碁につかっていて、その結果として、知的障害に見える。」僕はそういうと、豊岡医師は小さくうなづいた。そして僕の代わりに続けた。 「囲碁以外の余分なエネルギー、余分な能力を使わない為に身体の成長を止めている。それ以外にも身体的欠陥が発生しているのは、ミコちゃんにとって、囲碁とは関係ない事だからだ。と考えます。」 僕はどっと疲れたように、軽くうつむいた。 「なら治療はどうすればいいのでしょうか? ミコに囲碁を止めさせればいいのでしょうか?」 「わかりません。なによりミコちゃんが、そういった治療を望んでいるかも疑問です。」 「そうですね。無理矢理でもない限り、ミコは囲碁を止めたりしません。」 「ですので、この15年間、ミコちゃんはずっと現状維持でした。」 「はい。」僕は、話がまとまったかのように小さく答えたが、豊岡医師の話はまだ残っていた。 「問題は、もし、私の想像通りなら、彼女が今後、非常に危険な状態に陥る可能性があるという事です。」 「どういうことですか?」僕は氷ついたように、豊岡医師の顔を見つめた。 「ミコちゃんは、先日の対局後、倒れたと聞きましたが。」 「そうです、それ以前にも、対局の後はずいぶん疲れたようすで、熱をだしたりする事がありました。先日の相手は世界ランク5位のアイランドって言うのですが、対局後に突然倒れて数日間は寝こんでいました。」 「医師の診断は?」 「貧血ではないかと。」 「須磨さんは、今、それを信じますか?」・・・僕は、はっとした。 「まさか一連の病気? 症状の延長だと?」 「私はその可能性を考えます。」豊岡医師は静かに言った。 「しかし、いままで15年間は、そんな事がなかったのでしょう?」そう、ヘルパーはそんな話はしていなかった。 「そうです、しかし、この15年間、ミコちゃんの相手は神戸さんだけだった。ミコちゃんはその神戸さんより強かったと聞いています。つまり、今までは、それほど・・・。つまり生体維持能力を犠牲にするほどの死闘をしてこなかった。だが、今は、ミコちゃんは名人よりも強い相手と勝負しています。もし、これまでよりはるか高いレベルの、つまりミコちゃんの能力の限界以上の戦いを強いられているとしたら?」 「さっきの話の続きを考えるって事ですか? もう、ミコは囲碁の為に使える脳細胞は残っていないのに、戦っていると。」 「ミコちゃんが、どういった能力を使っているのかは分かりません、しかし、彼女の限界が近づいているのではないかと考えます。むしろ人間の生物的限界でしょうか。雪山で遭難した人間が、体に遠い部分から切り離して、凍傷になっても体の重要区画に体温を回すように。ミコちゃんはまるで逆に、囲碁の為に生命維持部分すらを切り離し始めた可能性があります。」 「このまま続ければ死ぬかもしれないと?」僕は簡単に言葉にしたが、それは最悪の想像だと、すぐに気付いた。 「生命の危険性があると、私は思っています。何度も言うように医師としての見解ではありませんが。個人的にはそう思っています。」 僕はいつの間にか震えていた。 「囲碁をやめさせるべきでしょうか?」 「医師としては、それを勧めます。またそうでなくとも、危険性の高い対局は避けるべきでしょう。」 「危険性の高い? より強い相手と言うことですか?」 「そうです。須磨さんも同じ考えだと思いますが。ミコちゃんの病状の悪化は、対戦相手の高レベル化に比例しています。このままいけば、いづれミコちゃんの体がもたなくなる。もっとゆっくり体力をつけてから対局するか、対局ごとの回復期間を長く取るか。根本的には、やはり高レベルの対局はさしひかえるのを、お勧めします。彼女の強さは天才ではなく、犠牲の上になりたっている奇跡なのです。」 僕は沈痛な面持ちでうなづくのがやっとだった。 ミコから碁を取り上げる事が出来ない事はわかっていた。僕と姉は出来ない事を知っていた。それでも姉は何度か対局を止めさせる事を画策した。だが、その度にミコは酷く落ち込み、ずっと泣いているのだった。 ずるずると僕らは、ミコの対局を続けていた。ミコの症状はそれほど酷くなる事もなかったし、よほどの相手でもない限り、対局をしても特に問題もなかった。 そうしているうちに、ミコは世界2位のコンピューター「シックスアイランド」との対局となった。ミコは勝利し、そして意識不明になった。 多臓器不全。診断は簡単だったが、原因はもちろん不明だった。病院の集中治療室で4日間意識不明の状態が続き、やがて目を覚ました。「にゃローと打てる?」最初にミコはそう言った。僕はうなづくしかなかった。 「ニャロラトテップ」との対局が近づくにつれ、ミコは急速に回復した。世間の注目はひましに高くなり、姫路先生をはじめ、トッププロが次々とホテルの部屋にやってきて、ニャロラトテップのこれまでの棋譜を開いては検討がおこなわれた。棋士達の期待や熱気もヒートアップしていた。 「では、始めてください。」と言う係員の言葉で、ジョブズ氏は「OK」と小さく答えて、ノートパソコンに表示されたスタートボタンをクリックした。ジョブズ氏のパソコン画面は脇に置かれた巨大な液晶ディスプレイに映し出されていた。係員をはじめ一同は、じっと巨大ディスプレイを眺めた。世界最強のプログラム「ニャロラトテップ」は初手に何を指示してくるのだろう? と皆が注目していた。ただ、ミコだけは、じーと何もない碁盤を見つめいた。それはやがて始まる演奏を待つ、音楽家の様だった。ディスプレイに映された碁盤の上に、ニャロラトテップは黒い石を映し出した。「おぉぉ」とどよめきが上がった。同時にジョブズ氏はディスプレイが指示した場所を確認して、黒い石をゆっくりと置いた。 「黒、初手、10の10、天元」 TV中継には、碁盤の映像が映し出される。ジョブズ氏の初手を見て、外でもどよめきがおこっているのが聞こえた。ただ、ミコは何もいわずに右手を石の中に突っ込んで、お気に入りの一つを見つけたかのように取り出すと、すぐに白い石を碁盤に置いた。小さなどよめきがおこった。コンピューターの出した意外な初手に対して、ミコの動きがあまりにも早かったからだ。ミコはこの意外な初手を予想していた、と言うより知っていたようにすら思えた。ほどなくしてコンピューターが次の手を打った。ミコはじっと見ていたが、しばらくして次の手を打った。ニャロラトテップとミコが同じようなペースで碁盤を埋めていく。白と黒の石が綺麗にバランスよく配置されていく。ここまではニャロラトテップもミコも予想どおりの展開なのだろうか。かなり早いペースで布石が進んでいた。碁盤に偏りなく、白と黒の石が広がっていく様子は、奇妙なほど美しく思えた。ただ次のミコの手で、やはり小さなどよめきが生まれた。意外な手だったようだ。ここで、ニャロラトテップは時間を置いて考え始めた。世界最速のコンピューターの中では、さまざまな未来予想図が作られているのだろう。ジョブズ氏の後ろには数十台のディスプレイが並び、白衣を着た技術者が5人ほどじっとディスプレイを見ている。ディスプレイの中では、いくつものパターンが次々と展開され比較され、優位を決定する作業が映し出されている。やがて目の前の大きなディスプレイに黒い石が示された。ジョブズ氏は画面を何度も見て、間違えないようによく確認をして黒い石を慎重に置いた。 しばらくして、ミコが次の手を打つ。また小さなどよめき。ニャロラトテップはしばらく考えて次の石を指示した。ミコが次の手を打つ。ミコの打つ時間よりあきらかにニャロラトテップの検討時間が長くなっていた。だが次のニャロラトテップが打った石にミコの手が止まった。ニャロラトテップが妙手を放ったのだろうか? 僕は姫路先生の方を見たが、姫路先生もよく分からないような顔をして碁盤を見つめている。しばらくしてミコは次の手を打った。ニャロラトテップの攻勢? ミコのペースは少し遅くなっていた。そしてミコの頬が赤く染まり始めていた。もうミコは僕らと違う世界に行こうとしているのだろうか?ミコの深くしずかな呼吸も速くなっていた。 碁盤の上は白と黒が美しくまばらに散らばっていた。どっちが優性なのかは僕にはとても分からない。いや、先生方の表情を見るにだれも分からないようすだった。白と黒の石が何がどうつながって未来でどのような影響を及ぼすのか? それを知るのはミコとニャロラトテップだけなのだ。ただ、全ての可能性の中から、唯一の未来を引き当てる事ができるのだろうか? ミコとニャロラトテップが共に最良の可能性を引き当てるなら、それはミコの言う「同じ未来を見ている。」と言うことになるのだろうか? 頬を赤く染め、恍惚とした瞳で碁盤を見つめるミコは、苦しみから解き放たれた聖人のようにすら見えた。そうして僕はこの時まで、ミコが勝利して助かるのじゃないか? と淡い期待すら持ち始めていた。 「カチャ」指からこぼれ落ちた石が、再び石の山に落ちて出した小さな音だった。僕は、はっとした。しかし、ミコは再び石をつかむと何事もなかったように碁盤に置いた。ミコの指先が棋士の二本指でなく、まるで子供のように三つ指で石をつかんでいた。ミコは既に指の握力も失っていた。僕はもう一度、ミコを見た。 凄い汗だ。一体いつのまに? ハンカチを出して慌ててミコの汗を拭く、ミコの汗は熱湯のように沸き立ちそうだった。僕はコップに出された水をハンカチに慌てて含ませると、ミコの顔を軽くぬぐった。熱い。冷たい手と対照的に、ミコの頭は沸騰しそうな勢いだった。気がつけば呼吸も荒くなっていた。 「たかと」姉さんが小さく僕の名前を呼んだ。姉さんの顔は恐怖におののいていた。今すぐやめさせるべきだ。ミコは何も言わず、次の石を置いた。 ジョブズ氏は対戦相手の体調悪化に気付いた。いつの間にか小さな女の子は熱病人のようになりながら碁を指していた。呼吸は荒く、今にも碁盤の上に倒れこみそうな雰囲気だった。「何か健康上の問題があったのだろうか?」ジョブズ氏がそう思った時、ニャロラトテップは次の手を指示した。ジョブズ氏はこの一手が何か大きな問題を起こす予感を感じながらも、黒い石を碁盤に置いた。 ミコは長考に入った。今日、一番の長考だった。碁盤の上の白と黒の石だけが、星のように写っていた。 難しい問題。今まで、ずっと悩んでいた問題のような気がした。苦しくは無かった。白と黒の世界がどんどん変化して美しい未来が繰り出されていた。そのいづれもが、最良の手のように見えたが、ニャローの求めているものとは違う気がしていた。白と黒の星が渦を巻いていた。いくつもの未来が川のように流れ、紡いでいた。猛スピードで変化して輝き流れる川の中に隠れて、決して見つからない存在。あることは誰もが確信しつつ、決して誰も見たことの無い場所。天を覆いつくした白と黒の星はあっと言う間に燃え尽きたように消えた。そして、白い石がただ一つ残った。答えは見つかった。ミコは、ただ一つの石を握るとゆっくりと手を持ち上げた。落とさないようにゆっくりと運ばないと。大丈夫。もう少し待っててくれる。ミコはそう思った。だが手は動かなかった。ミコの手は碁盤まで届くことなく凍りついた。間に合わなかったの? ミコは当惑した。間に合わなかったの? 目から涙があふれ出た。もう少しなのに・・。ゆっくりと、そして、石は指の間から滑り落ちた。白石は赤い絨毯の上に、文字通り音もなく落ちた。見つかったのに・・・。小さく息を吹き出すと、ミコは静かに目を閉じた。 ミコの長考が終わり、ミコが石を握って取り出すと、僕はほっとした。まだ大丈夫だと思った。ミコは石を置こうと手を伸ばしたが、ミコの手はピタリと空中で止ると、ポトリと絨毯の上に石を落としてしまった。ミコの目からは涙が流れていた。何故? ミコは一瞬絶望的な目をして、すぐに悲しげな目を閉じた。何かを言ったような気がした。 「ミコ?」姉が心配して、声をかけた。しかしミコは返事する事もなく、スローモーションで姉の方に寄りかかった。「ミコ?」姉はまた呼びかけた。僕は怖くて何も言う事はできなかった。姉は震える手でミコを抱きしめた。「ミコ、ミコ」姉はもう涙声になっていた。「おきてミコおねがいだから、目を覚まして。おねがいだから。」姉の悲しげな声が続いていた。ぼくは、ミコの頭をしずかに撫でた。「よく頑張った。」と小さくつぶやくしかなかった。 姉は、ミコを抱きしめたまま泣いていた。対局場はしずまりかえったまま、姉の声だけが響いていた。だれもが当惑していた。 「神戸・・・挑戦者、残り時間あと1分です。」係員の声は動揺して震えていた。いや、既に泣いているのを必死で隠しているようだった。 僕はじっと時計を見つめた。時計の針は対局の状況とは関係なく進んでいた。音もなく静かに針が動いていた。時計の針が30秒を指した。「神戸、挑戦者、残りあと30秒です。」女性の声は泣きそうだった。 ミコの耳には届いていないだろう。だが、もう少しで対局が終る。ミコの時間切れで。僕は絨毯に落ちた白い石を見つめた。じいさんのように、これがミコの形見になるんだろうか。なにげなく僕は石を拾い上げると、ぎゅっと握りこんだ。石は暖かかった。錯覚かと思って、僕は手を開いて石を眺めた。石はまだ死んではいなかった。その指すべき場所を求めて僕に訴えていた。僕は無意識に棋士たちがするように石を指先に持ち替えていた。いや、石がまるで手のひらか流れ出し、すべるようにして、やがて指先に止まったようにすら感じた。石は飛び立とうとしている。だが、何処だ? ミコは何処に指そうとしていたんだ? 僕は碁盤を見た。わからない。ぜんぜん分からない。白と黒の海。ミコが見つけ出したその場所は僕にはわからなかった。「神戸挑戦者、残り10秒」女性の声が聞こえた。 僕は急に焦りだした。答えはある。ミコは間違いなく見つけ出した。だからこの石はこんなにも飛び立とうとしているんだ。石は自らが行くべき場所を知っている。僕は慌てた。どうすればいいんだ? 僕は姉の方を見た。姉は泣いていた。そしてミコの敗北を待っているようだった。違う。まだ終っていない。「あと5秒、4、3、」女性の声が時間を読み上げ始めた。僕は慌てて周りを見た。皆が一様に黙とうをするように、カウントを聞いていた。違う。答えはある。そうして、僕の眼はスーと周りを追って、ピタリと止まった。それはニャロラトテップのディスプレイだった。何かが違っていた。その画面はさっきみた碁盤と何かが違っていた。だから視線が止まった。何かが違う? 僕はもう一度、碁盤に視線を移して、再びディスプレイを見た。白い石が一つ多い。画面の中の碁盤には、ニャロラトテップの黒石ではなく、ミコが打った後のように白石がマークされて光っていた。「2、1、」カチっと石の置かれる音がした。「神戸挑戦者のじかん・・・」女性の声が止まった。「失礼しました。後手、4の5」あわてて訂正する。姉は驚いた表情で僕を見た。僕は「大丈夫うまくいく」と返事した。 対局場は少しざわついた。僕が勝手に打ったからだ。だが、ルール上は問題無い。対局は続くはずだ。ざわつきがさらに大きくなってきた。立会い人の先生方が次々と「ほぉー」と声をだしはじめた。「すごい」姫路先生が小さくつぶやいた。僕にはさっぱりだが、ミコが命をかけて見つけた手は、かつてない妙手だった。そうだ、そのはずだ、考えたのは僕ではなくミコなんだから。僕はミコを見た。気のせいかその顔には安堵が広がっているように感じた。ニャロラトテップは盤上につるされたカメラから、石の位置を把握して、コンピューターは対応策を計算する。ミコの手に対してニャロラトテップのディプレイには次の手が示された。ジョブズ氏は今までと同じように黒い石を静かに置いた。白い石を取ろうとすると石はまるで磁石のように僕の指先にくっついてきた。ミコの制限時間はもう残ってないので、すぐに秒読みが始まったが、3の時点でやはりニャロラトテップのディスプレイには次の白石の場所が映し出された。僕はすぐに、そこに置いた。そして3度めの石を置いた時、ジョブズ氏は気づいたようだった。「画面をみているのかい?」英語でたぶんそのような事を言った。ぼくは「イエス」と言った。そうして、画面に白石が現れるのを待って、「ほら」と言って4度めの石を置いた。ジョブズ氏は「ミラクル」と言った。そして部下になにやら原因を調べるようにと指示したようだったが、ディスプレイを片付けるような事はしなかった。僕はジョブズ氏もゲームを最後まで見たいんだと確信していた。 漆黒の闇だった。ただ、その闇は恐怖ではなく、むしろ落ち着いた暖かい闇のようにミコは感じた。どこからか不思議な笛の音が静かに聞こえていた。 「もう次の手はきまったんだろ?」不意にどこからか声がした。闇の底からそっと見つめている人影。顔は見えないが、ミコはなぜか不安は感じなかった。彼はなにもしない。 「あなたがニャロー?」 「人間たちは、そう言うね。ただ本当の名前は○△××■☆と言う。」 「○△××■☆?難しい名前だね。」 ミコは自分の気持ちがちゃんと言葉になる事に、少し驚いていた。いつもの、伝えたい気持ちが、うまく言葉にならず悶々としていたのが、今に限ってすっきりとした綺麗な言葉になって、ニャロラトテップに伝わっているのが嬉しくなった。 「人間たちにとっては難しい名前だろうな。それより僕は君の次の手を心待ちにしているんだが。見つかったんだろ?」 彼はなにもしない、ただ私を待っているんだ。ミコは再び思った。 「うん、でも、あたし、死んじゃったみたい。もう何も見えないし、石も落としちゃったみたい。・・・ごめんね。」 「そうだね。ただ、それはたいした問題はない。」 「・・・・? そうなの?」ミコはニャロラトテップの言う事が良く分からなかった。 「これでも僕は、君たちの言うところの神だからね。」 「神ってなあに・・? どうすればいいの?」 「僕がうまくしてあげる。君は次の手を教えてくれればいい。さぁ続きをしよう。」 「続きを打てるの?」ミコはわくわくする気持ちを抑えきれずにいた。 「さっきの質問だが、人間に出来ない事ができる者を、神って言うんだよ。さぁ続きをしよう。」 「うん・・・じゃぁ次の手は・・・・・・」 対局はミコの半目勝ちで終った。 ミコは呼吸もせず、心臓も停止していた。そしてずいぶんたっていた。だが、なぜか誰も救急車を呼ぼうとしなかった。皆が、誰かがもう呼んでいるって思っていたのだろうか? そう言う単純な偶然では片付けられないものがあったが、救急車は最後まで来なかった。ミコはタクシーで帰りにそのまま病院に行ったのだった。診察は異常なし。もちろん倒れた事については原因不明だった。僕は全てが片付いて、難局をうまくミコが乗り切った事を確信した。 だが、安心すると同時に、僕は猛烈に恥ずかしくなっていた。あの時、ミコの勝利と同時 に、僕はミコが生き返る事を確信していた。何故かは分からないが。 だが、ミコは目を覚まさなかったのだ。僕は当惑して、自分の確信を疑った。そして姉を見た。姉も同じ確信をしていたはずだった。だが、姉は少し違った、姉は決定的な言葉を呟いた。「眠り姫よ」・・・まさか? だが僕は一瞬で納得して、そして、ミコとのキスシーンを世界中に生中継してしまったのだった。 「ありがとう、楽しかったよ。」ニャロラトテップは言った。 「私も、すごくすごく楽しかった。本当にずっとあなたと、こうして打ちたかったの、ずっとずっと前から。」 「それは、僕も同じだ。ずっと今日の日を待ち焦がれていた。君の生まれる前からね。君たち人間には分からないだろうけど、永久に生き続けているってのはイロイロ大変なものでね。その上、毎日、仕事仕事で・・・そうそう仕事仕事。悪いが、もう会えることはないだろうが。とても楽しかったよ。」 「○△××■☆と昔あったことがあるよ。」ミコは不意に言った。 「・・・・・・・おや、覚えていたんだ。」ニャロラトテップは笑った。 「すごくすごく前」 「そうだね。さて、そろそろ行かないと、部下たちが待っている。」 「うん、バイバイ○△××■☆」 ニャロラトテップは、そうしてすーと闇に消えていた。 「そうだ、最後にいい事を教えてあげよう」消えていったはずのニャロラトテップの声が、どこからともなく不意にミコに聞こえた。 「なぁに?」 「今から、目が覚めて気がついても、少し寝たフリをしててごらん。」 「どうして?」ミコには意味がよくわからなかった。 「いい事があるから。」そう言ってニャロラトテップが、見えない闇の中で笑っているようだった。 「これはサービス。じゃぁ」そういって声は静かに消えた。 「バイバイ、にゃーロー」ミコは言った。 ニャーローがサービスで教えてくれた事は、誰にも言っていない。その時は意味が分からなかったが、今では確かにちょっと得したように思っている。 「何、にやけて入るのよ?」クラスメイトが不意に声をかけた。 「えっ?・・・そんなことないよ」ミコは慌てて答えた。 「どうせ男の事でも考えていたんでしょ」 ・・・・・・するどい。 「そんなことないってばー」 「顔、真っ赤じゃん」友達のさらに執拗な攻撃。 「ええぇーー。」 友達は、クスクスと笑い始めた。 「もぉ」ミコはぷいっと窓の外を向いた。 その窓の外の、はるか向こう、田園風景と白い街を越えた場所には、美しい海が、きらきらと広がっていた。 (終)
|