囲碁の歴史07 昭和初期の碁


呉清源と木谷実
昭和2年(1927)から昇段を決める試合として、大手合(おおてあい)が開始されました。

昭和3年(1928)には中国から天才、呉清源(ごせいげん)が来日し、手合に参加します。

呉清源は1914年(大正3年)福建省生まれで、5歳年上の木谷実(きたにみのる)を兄のように慕い、昭和7年ごろからはお互いにライバル視するようになります。
呉清源(写真左は津島寿一氏)

昭和8年(1933)の大手合で木谷実、呉清源は毎局「新布石」を試みました。

木谷は勢力と位を重視するのに対し、呉は一手で隅を打ち切るスピードに比重をおきました。
木谷実(きたにみのる)

翌昭和9年(1934)には「新布石法(しんふせきほう)」が刊行され、プロだけでなくアマの間にも大流行となりました。

この新布石の利点と旧布石の長所を総合したのが、戦後の布石となっていきます。



本因坊秀哉名人引退
昭和12年(1937)、本因坊秀哉(ほんいんぼうしゅうさい)名人は引退を表明し、翌昭和13年(1938)に木谷実との引退碁を打ち終え、昭和15年(1940)病死しました。
本因坊秀哉(1874-1940)

引退碁は途中、秀哉の衰弱が激しくなり、入院のため対局は一時中止となることもあり6月〜12月まで半年かけて打たれ、結果は木谷の先で5目勝ちとなります。

この時、はじめて「封じ手(ふうじて)」制が採用され、川端康成(かわばたやすなり)が観戦記を担当しました。

のちに川端はこの引退碁をもとに小説「名人」を発表します。
写真左から、高川秀格、川端康成、坂田栄男
新聞棋戦の展開
本因坊の名跡は日本棋院にゆずり渡され、昭和14年(1939)、毎日新聞社の協力で「本因坊戦」がスタートしました。

また読売新聞社では日本棋院と契約を結び、呉清源を軸に「十番碁(じゅうばんご)」を開始します。

朝日新聞社では昇段争いの大手合棋譜を掲載してファンの人気を集めました。






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