囲碁の歴史04 | 安土桃山から江戸へ |
日本(にほん)の時代(じだい)の移(うつ)り変(か)わり | |||||||||
縄文・弥生時代 | 古墳時代 | 飛鳥時代 | 奈良時代 | 平安時代 | 鎌倉時代 | 室町時代 | 安土・桃山時代 | 江戸時代 | 近代・現代 |
じょうもん・やよい | こふん | あすか | なら | へいあん | かまくら | むろまち | あづち・ももやま | えど | きんだい・げんだい |
● | 安土桃山時代(あづちももやまじだい)から江戸時代(えどじだい)はじめは、大名(だいみょう)、大商人(だいしょうにん)が中心(ちゅうしん)として活躍(かつやく)した時代(じだい)です。 | |
![]() |
||
織田信長(おだのぶなが) | ||
● | 1578年、織田信長(おだのぶなが)は日蓮宗(にちれんしゅう)僧侶(そうりょ)の日海(にっかい)と会(あ)います。 信長(のぶなが)は囲碁のじょうずな日海(にっかい)の対局(たいきょく)をみて「名人(めいじん)」とたたえたそうです。 これが名人(めいじん)の名前(なまえ)のはじまりといわれています。 日海(にっかい)は後(のち)の本因坊算砂(ほんいんぼうさんさ)です。 |
|
![]() |
||
本因坊算砂(ほんいんぼう さんさ)(京都・寂光寺) | ||
● | 日海(にっかい)(=幼名を加納與三郎という)は1559年に生まれ、京都(きょうと)寂光寺(じゃっこうじ)の門(もん)に入(はい)りました。 日海は寺(てら)の塔頭(たっちゅう)「本因坊(ほんいんぼう)」でくらしていたので、後(のち)に本因坊算砂(ほんいんぼうさんさ)とその名(な)でよばれるようになります。 |
|
● | 1582年、日海は本能寺(ほんのうじ)の変(へん)の前夜(ぜんや)、信長(のぶなが)の御前(ごぜん)で日蓮宗僧侶(にちれんしゅうそうりょ)の利玄(りげん)と対局(たいきょく)したと伝(つた)えられています。 ところが、めずらしい囲碁の形(かたち)(=三コウ)ができ、無勝負(むしょうぶ)となったということです。 三コウ(さんこう)を不吉(ふきつ)の前兆(ぜんちょう)とするのはこの時(とき)からです。 |
|
![]() |
||
豊臣秀吉(とよとみひでよし) | ||
● | 豊臣秀吉(とよとみひでよし)は本能寺(ほんのうじ)で信長(のぶなが)を攻(せ)めた明智光秀(あけちみつひで)を討(う)ち、1585年、関白(かんぱく)となり治安(ちあん)の回復(かいふく)を待(ま)って日海(にっかい)をよびよせます。 1585年、1588年に、今(いま)でいう全国大会(ぜんこくたいかい)を催(もよお)し、御前試合(ごぜんしあい)を行(おこな)い、日海(にっかい)が優勝(ゆうしょう)しました。 |
|
● | 1587年、日海は駿河(するが)に入り徳川家康(とくがわいえやす)と碁を連日連夜(れんじつれんや)打った記録(きろく)があります。 | |
● | 1588年、秀吉(ひでよし)は日海に碁の役職(やくしょく)(=官賜碁所)を与(あた)えました。これが碁所(ごどころ)のはじまりといわれています。 | |
● | 活動力(かつどうりょく)のある日海は信長(のぶなが)、秀吉(ひでよし)、家康(いえやす)の碁好(ごず)きに仕(つか)えました。 | |
信長、秀吉、家康ともに日海に五子(ごし)の手合(てあい)だったといわれています。 今(いま)でいうアマチュア四〜五段(だん)ぐらいと思(おも)われますが、賢(かしこ)い日海のことだから、三人(さんにん)の実力(じつりょく)に差(さ)をつけなかったのは当然(とうぜん)のことといえます。 |
||
![]() |
||
徳川家康(とくがわいえやす) | ||
● | 1603年、徳川家康(とくだわいえやす)が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)となったとき、日海がお祝(いわ)いに参上(さんじょう)して、家康と五子(ごし)で対局(たいきょく)をしています。 その後(ご)、家康の指示(しじ)で日海は寂光寺(じゃっこうじ)を弟(おとうと)の日栄(にちえい)に譲(ゆず)り、隠居(いんきょ)して「本因坊算砂(ほんいんぼうさんさ)」と名(な)のり「名人碁所(めいじんごどころ)」に任(にん)ぜられました。日海は幕府公認(ばくふこうにん)のプロ棋士(きし)となりました。 そして、1626年には御城碁(おしろご)がはじまります。 それ以来(いらい)、囲碁は日本の国技(こくぎ)として発展(はってん)していくことになります。 |
|
御城碁対局場(おしろご たいきょくじょう) | ||
![]() |
||
● | 御城碁(おしろご)は毎年(まいねん)1回(かい)江戸城(えどじょう)で打(う)たれ、徳川吉宗(とくがわよしむね)の時代(じだい)には(=1716年から)家康(いえやす)の命日(めいにち)にちなんで、毎年(まいねん)11月(がつ)17日(にち)と対局日(たいきょくび)も決(き)められました。 1861年までに全部(ぜんぶ)で530局(きょく)ほど対局(たいきょく)されました。 |
|
● | 碁所(ごどころ)の仕事(しごと)は天覧碁(てんらんご)の組織(そしき)、将軍(しょうぐん)の指南(しなん)、免状(めんじょう)の発行(はっこう)、全国(ぜんこく)棋士(きし)の統一(とういつ)などで、名人(めいじん)でなければ碁所(ごどころ)にはなれませんでした。 やがて本因坊(ほんいんぼう)につづいて、井上(いのうえ)、安井(やすい)、林(はやし)の家元四家(いえもとよんけ)で碁所(ごどころ)を争(あらそ)うようになります。 |
|
![]() 歴代名人就位一覧 歴代家元四家一覧 |
![]() |
|
● | 四家(よんけ)の家元制(いえもとせい)が確立(かくりつ)し碁界(ごかい)が組織的(そしきてき)に安定(あんてい)してくると、碁所(ごどころ)をめぐって勢力争(せいりょくあらそ)いが起(お)こりました。 三代将軍(さんだいしょうぐん)家光(いえみつ)のとき、碁所(ごどころ)をめぐって話(はな)し合(あ)いがつかなくなり、幕府(ばくふ)の命(めい)によって囲碁(いご)で決着(けっちゃく)をつけること(=争碁(そうご))にりました。 幕府(ばくふ)は二世本因坊(にせいほんいんぼう)算悦(さんえつ)と二世安井(にせいやすい)算知(さんち)の二人(ふたり)に二十番(にじゅうばん)の争碁(そうご)を命(めい)じたのです。 |
|
1645年の御城碁(おしろご)を第1局(だいいっきょく)として、その後(ご)9年間(ねんかん)にわたって六番(ろくばん)まで争(あらそ)いましたが、お互(たが)いに黒番(くろばん)を勝(か)ち、引分(ひきわ)けます。 死闘(しとう)の戦(たたか)いもここまでとし、碁所(ごどころ)は一時預(いちじあず)かりとなりました。 |
||
● | その後(ご)、算悦(さんえつ)は48歳(さい)で病死(びょうし)したため、算知(さんち)は1668年、碁所(ごどころ)に任ぜられました。 これを不服(ふふく)としたのが算悦(さんえつ)の跡目(あとめ)である本因坊(ほんいんぼう)道悦(どうえつ)でした。 道悦(どうえつ)は将軍(しょうぐん)の意(い)に反(はん)して争碁(そうご)を申込(もうしこ)み、負(ま)けたら遠島(えんとう)も覚悟(かくご)の上(うえ)で打(う)ちました。 |
|
● | 1676年、道悦(どうえつ)が12勝(しょう)4敗(はい)4ジゴで勝(か)ち、算知(さんち)は引退(いんたい)しますが、道悦(どうえつ)も公儀(こうぎ)で決(き)めた碁所(ごどころ)に異議(いぎ)を申(もう)し立(た)てた責任(せきにん)をとって自分(じぶん)の跡目(あとめ)を道策(どうさく)にゆずって引退(いんたい)しました。 | |
![]() |
||
● | 1677年、四世本因坊(よんせいほんいんぼう)道策(どうさく)が碁所(ごどころ)に任(にん)ぜられても、異議(いぎ)を申(もう)し立(た)てる者(もの)はだれもいませんでした。 最強(さいきょう)という評判(ひょうばん)どおり、道策(どうさく)の実力(じつりょく)は十三段(じゅうさんだん)といわれ、誰(だれ)も勝(か)てなかったからです。 本因坊道策(ほんいんぼうどうさく)は名人(めいじん)の中(なか)でも特(とく)にすぐれていたので、後(のち)に「碁聖(ごせい)」といわれました。 (=道策は前聖、秀策は後聖とたたえられ、二人とも碁聖といわれています。) |
|
![]() |
||
本因坊道策(ほんいんぼうどうさく)(山崎尚志氏蔵) | ||
● | 大天才(だいてんさい)の道策(どうさく)は、安井流(やすいりゅう)とよばれた当時(とうじ)の古(ふる)いタイプの手法(しゅほう)に変革(へんかく)を加(くわ)え、合理的(ごうりてき)な碁(ご)を創(つく)り上(あ)げました。 合理的(ごうりてき)な手割(てわり)、全局的(ぜんきょくてき)な布石(ふせき)の観点(かんてん)によるその手法(しゅほう)は後(のち)に、道策流(どうさくりゅう)と称(しょう)されるほど画期的(かっきてき)なもので、日本(にほん)の碁(ご)は道策(どうさく)が創作(そうさく)したともいわれています。 |
|
● | 道策(どうさく)が亡(な)くなった後(あと)も争碁(そうご)は続(つづ)き、江戸時代(えどじだい)に6回(かい)行(おこ)われています。 碁所(ごどころ)をめざし御城碁(おしろご)や、家元四家(いえもとよんけ)で真剣(しんけん)にお互(たが)いの技量(ぎりょう)を磨(みが)いたことが進歩(しんぽ)発展(はってん)につながったといえます。 |
|
![]() |
||
● | 雪(ゆき)の碁盤(ごばん)は、東京市ヶ谷(とうきょういちがや)の日本棋院(にほんきいん)1階(いっかい)に展示(てんじ)されています。 | |
同(おな)じ一本(いっぽん)の榧(かや)の木(き)から雪(ゆき)・月(つき)・花(はな)の三面(さんめん)の名盤(めいばん)が作(つく)られ、徳川幕府(とくがわばくふ)の碁所(ごどころ)で、打(う)ち初(ぞ)めなどに使用(しよう)されました。 |
©日本棋院